迷宮の出口

兎舞

   

 ファミレスは、意外と闇が深い。と思う。

 具体的には店自体ではない。そこにいる客たちだ。

 大抵の客席は四人掛け程度の大きさで衝立で仕切られている。その板一枚が安心感を与えるのか、意外と色んな話が聞こえている。


 怪しい投資話、霊感商法、その場にいないらしい人の陰口など。全く関係ない人間の耳にも毒としか思えないような会話が漏れ聞こえてくる。


 今も左隣のテーブルから、おそらく自分と同年代くらいだろう女性の声が聞こえてきていた。


『でね、急に奥さん帰って来ちゃって、まじやばかったー』

『さすがにバレたんじゃん』

『わかんない。彼が連れ出してくれたからその間に帰った』

『カギは?』

『合鍵もらってる』


 勝手な想像だが、どうやら不倫をしていて、相手の家で密会していたらそこへ相手の奥さんが帰ってきて慌てた、というシチュエーションなのだろう。夫婦で住んでいる家の合鍵を愛人に渡すとは、その男もどういう神経をしているのか。不倫がどうの、という以前に防犯意識が皆無なのではないだろうか。


『てかそのうちバレるって。いい加減やめときなよ』

『えー、でも付き合ってると会社でも贔屓してもらえて便利なんだよねー。今好きな人とかいないから、別れるメリット無いし』


 なんと相手は会社の同僚か上司なのか。どこまでリスクまみれなのだろう。顔さえ見えない赤の他人ながら頭を抱えたくなる。

 隣のテーブルの話はまだまだ終わりそうにない。これ以上聞いていたら自分の精神衛生が害されそうで、予定より早いが伝票を持ってレジへ向かった。


◇◆◇


 私は予定より早く部屋へ入る。部屋番号だけを彼に送った。その後はソファに座って読みかけの文庫本を出して続きを読む。丁度いい場面だったところを先ほどの会話に邪魔されたのだった。


 三十分も立たずに部屋の呼び鈴が押された。私は無言で立ち上がり扉を開ける。同じく無言のまま入って来た彼が、無言のまま私を抱きしめてベッドへ押し倒した。


「早かったんだな」


 スーツを着たまま抱き着かないで欲しい。厚い生地がごわごわするしベルトが当たって痛い。だが彼に脱ぐ気配はなく、私が藻掻くほど力を込められてしまう。


「ファミレスって、落ち着かないんだもん」

「だから俺の部屋で逢おうっていってるだろ。それなら好きに過ごせるんだし」

「嫌よ」


 たとえ単身赴任だろうがリスクがゼロなわけではない。ラブホテルなら安全なのかというとそれも無いが、自宅を使うと危険度は急増する。


 あのファミレスの女性を責められない。私だって不倫している。

 ぼんやりさっきの会話を思い出しているうちに胸がむき出しになっていて、空調が冷たかった。


◇◆◇


「前田さん、今夜空いてる?」


 そろそろ定時、という頃になって同じ部署の女性が声をかけて来た。週に何度かランチで一緒になる人だ。


「いえ、仕事が終わったら帰ろうかと」

「もしよかったらさー、合コン来てくれない? 一人風邪ひいて人数足らなくなっちゃって」


 お願い! と手を合わせられ、心が重くなる。今日は家に帰ったらドラマでも見ながらダラダラ過ごそうと思っていた。彼に言うと馬鹿にされる時間の過ごし方だが、自分はこれが好きなのだから仕方がない。

 だが彼には素直に言えるこの理由が言えない。仕方なくOKした。


「ほんと?! 助かるー、ありがとね」


 一瞬、彼に言うかどうしようか迷ったが、わざわざ言うほどの義理はないと気づいてそのまま仕事へ戻った。


◇◆◇


「じゃあ、はじめましてだけど、お疲れ様ー、かんぱーい!」


 男性側の幹事の明るい掛け声で皆がグラスを持ち上げる。私も近くに座っている人たちと軽くグラスを合わせた。

 自己紹介からそれぞれの共通点を探ってあちこちで雑談が始まる。結構本気で相手を探そうとしているみたいで、皆会社では見たことないほど真剣に男性の会話に聞き入っていた。


 私は穴埋めメンバーだから、と自分に言い訳しながら目の前のピザを手に取る。同じ更に手を伸ばした男と目が合った。どうぞ、という仕草で自分の手を引っ込める。


「君ももしかして急に声かけられた?」


 突然ピザ男が話しかけてきた。驚いたけど、男性側も欠席者がいて自分と同じく急遽声をかけられたのだろう。他のメンツのように頑張って相手を探すとかコミュニケーションを取ろうという勢いは感じられない。


「そうです、そちらも?」

「うん、帰ろうとしたら捕まった。ほら、あっちにいるメガネの奴」


 目線の先を辿ると、私を誘った同僚と二人で熱心に話し込んでいる。なるほど、幹事同士で、お互いが目的だったというわけか。


「あいつと喋ってる子、友達?」

「会社の同期です」


 ピザ男は、自分で聞いておきながら、ふーん、と興味なさげな相槌を打つ。私もこれ以上会話を続ける気になれず、たまたま通りかかった店員さんに二杯目を注文した。


「あんたは?」

「え?」


 また突然話しかけてきた。この男、読めなくて面倒くさいな。


「俺らの中に、良さげなのいる?」

「……私は埋め合わせ要員ですから」


 彼氏なんて欲しいと思っていない。がいてもいなくても。今日は会社の付き合いと思って引き受けただけだ。


「だろうな」

「……は?」


 だろうな、ってなんだ。意味は分からないけど、なんかカチンと来た。返す言葉が出てこないので無言でチューハイに口をつけていると、ハハッと笑う。


「なんだこいつ、って思ったろ、いま」

「……何なのさっきから」

「何、って、別に。合コンなのに男に興味示さない女なんて珍しいじゃん」

「うん、興味ない、だからあんたも彼女欲しいなら他の子のところいけば?」

「いいよ今更。ブスばっかだし」


 おいこら聞こえる! 私まで一緒に悪口言ってるって思われたら面倒なんですけど!


「つかあんたみたいなのを懲らしめるの、俺の使命だから」

「懲らしめるって、私あんたになんかした? 人数合わせで呼ばれた者同士ってだけじゃない」

「じゃなくてさ」


 ピザ男はわざわざ隣の空席に移動してきた。こっちくんな。


「あんた、不倫とかしてそう。だから男なんて別にいらなーい、みたいな余裕かましてんじゃないの?」

「は?」


 私は心臓がひっくり返りそうになりつつ、必死で冷静に不愉快顔を保つ。ピザ男にバレたところで実際にはそれほど大きなダメージはないはずだが、何故かこいつにだけは知られたくない。


「不倫してる奴ってさ、妙に意識高いっつーか、人見下してるところあるよな。自分は他人の旦那とか嫁さんを間借りしてるだけなのに、私不自由してませーん、みたいな涼しい顔しててさ」

「……そうなんだ」


 ピザ男の言い分が私に当てはまるのかどうかは分からない。今はそれを考える余裕はない。ただひたすらこの男の存在が不愉快だった。


「そうなんだ、って、もしかして認めた?」

「だからなんのことよ」

「あんたのことだよ。スカしてて感じ悪いな、って最初から思ってた。他の女もブスばっかでがつがつ男漁っててみっともないけどさ」


 そこで脚を組み替え、グイ、とこちらへ顔を寄せて来た。


「正直なだけあんたより可愛いよ。ここにいる女たちの中であんたが一番不細工だ。顔の話じゃねえよ、人生がな」


 私はまだ半分ほど残っていたチューハイをピザ男の顔にぶちまける。そして幹事の子のところへ行って一万円札を突き出し、そのまま一言も発せず店から出た。


◇◆◇


 家に帰るタクシーの中でスマホを取り出すと、彼から数件のメッセージと着信が残っていた。だがすぐに読む気にも折り返す気にもなれない。今の自分の不快の原因がこの人にあるような気がして、自分から関わりたくなかった。


 確かに私は不倫してる。相手に奥さんがいるって知ってる。彼がどう考えてるか知らないけど、私は別にいつ別れてもいいと思ってる。ただそれは今じゃないってだけだ。


 不倫相手なんて恋人のうちに入らない。だから私だって彼氏無しの独身女だ。彼氏が欲しいと頑張る同世代の女性達を見下しているつもりなんてない。ただ私は同じことが出来ないしする気が無いだけだ。一人が好きなわけじゃないけど、わざわざ苦労して誰かと一緒にいようと努力しないだけだ。


(努力しない……?)


 激しく入り乱れる自分の思考の言葉尻に、ピザ男の言葉と同じ違和感を感じて固まる。その時丁度自宅マンション前に到着したらしく、運転手からそれを告げられた。


◇◆◇


 あれこれ考えていたから、当たり前だけどちゃんと眠れなかった。小さな頭痛を感じながら午前中の業務を片付けていたせいで昼休みに食い込んでしまった。あまり食欲も無かったが一人でカフェに向かう。


 セルフの注文を済ませて席に着いたタイミングでスマホが鳴った。


『明日会いたい』


 彼からのいつものように一方的な連絡に、私は今までのような高揚感を感じることが出来なかった。それが彼本人への気持ちが醒めたからなのか、ピザ男への反感なのかは分からない。


 どう返事しようかと迷っていたら、スッと伸びて来た手にスマホを奪われた。慌てて辺りを見回せば、あのピザ男がいた。その手に持っているのは私のスマホで、何故か操作しているように見えた。


「ちょっと!」

「ほら」


 ごく自然につき返された画面を見ると『もう会わない』というメッセージが勝手に送信されていて唖然とする。しかももう既読になっていた。


「昼飯、これだけ? まさかダイエット? さすが意識高い系」

「あんたね……」


 ピザ男に言いたいことは万も億もある。だが気力はゼロだった。私は脱力して椅子に座り込む。ピザ男は勝手に空いている席に座った。


「もういいから、どっか行ってよ……」

「返事ねーな。まあその程度ってことだよな」


 自分でやらかしておいてなんで正当化してんだ。頭おかしいんじゃないだろうか。


「あんたも、なんでなんもしねえんだよ」

「なんも、って……」

「ナンパ男が勝手に送っただけだ、って否定すればいいじゃん。なんでそれしないの?」


 私は目の前の男をまじまじと見る。こいつが言っていることは確かにその通りだ。そしてそう言えば、もしかしたら彼は納得するだろう。そして明日の予定に話はうつる。明日会えばいつも通りセックスをして、そしてホテルで別れる。また連絡が来て、会って、別れる。その繰り返しに戻るだけだ。


「男もあんたも、その程度ってことだろ。やめとけ」


 このカフェの名物の分厚いピザトーストにかぶりつきながら言うことか。つかまたピザ。どんだけ好きなんだピザ。


「まさか本気で好きだったのか? 相手の嫁にバレて慰謝料請求されて仕事首になって二人でボロアパートで貧乏生活してもいいわ! みたいな夢見てた? だったら謝るわ、あんたのこと尊敬する」

「そんなこと……」

「あ、やっぱそこまでは系か。だよな」


 私は自分が注文したサンドイッチを見下ろす。やっぱり食欲なんかない。手を付けていないそれをピザ男に差し出すと、当たり前のように手を伸ばしてきた。


「不倫なんかするより、空いた時間は好きなことすりゃいいじゃん。ゴロゴロしてダラダラしてアニメ見たりゲームしたりおやつ食ったりしてさ。そっちの方がずっと充実してね?」


 私のサンドイッチも秒で無くなった。私と同い年くらいだろうけど、なんでこんなに食べるの早いんだろう。

 と考えて、彼はどうなのか、と想像する。しかし何かを食べている姿を見たことが無いことに気づいた。その程度ってことなのだ。


 気づけば私は笑っていた。そしてハンカチとかナフキンとか、当たったところで何の問題も無いものをピザ男に投げつけ続けた。


 でもピザ男は怒らなかった。楽しそうに防御しながら、落ちた私のハンカチを拾って畳み直してくれた。私はそれを使って自分の顔を覆った。


 しばらくして顔をあげた時、もうピザ男はいなくなっていた。代わりにまだ湯気が立つピザトーストが置かれていた。


 私からちゃんと別れを言おうとスマホを手に取ると、新しい連絡先が追加されていることに気づいた。


「アイコンまでピザとか……」


 私はまた笑いが止まらなくなった。

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