第8話 真面目に巨熊討伐
「伏せろ…ゆっくりオレに近寄れ」
僕たちは、できるだけ頭を下げて、音を立てないようにゆっくりとハルの元に寄りました。パリパリと枯葉を潰す音さえ気になります。
「オレと同じ索敵範囲の魔獣だ。この匂いは熊。足音的にかなりデカイ」
彼女は五感を使って索敵をします。当然、僕たちにはそんなもの分かりません。シーナが言うには、彼女は何らかの強力な職業を有しているらしいです。
「オレたちの出方を窺ってる。飛び出すなよ…死ぬぞ…」
何か大きな行動を起こせば、必ず襲ってくる。襲われれば、必ず死ぬ。彼女はそう言っています。
死…。死を思い浮かべると、必ずあの夜のことが連想されます。決して覆ることのない実力差。夜の闇より暗い絶望。僕はあの邪悪に抗うと誓いました。ならばこの程度の恐怖で立ち止まってはいけません。
考えること…それが唯一僕が出来る貢献。シーナを守る術です。いえ、今はハルもいます。
この状況からどうにか生還する方法を、考えねば。
「どう闘うんですか?」
「はぁ?」
シーナは、青い眼差しを僕に向けて聞いてきました。彼女の目は、もう覚悟ができていました。
「今、どうやって逃げるか考えてたんだけど」
「なら、わたくしの身体を囮に」
「却下…。いや…でも…そうか…」
決して彼女の四肢をもぎ取ろうと言うのではなく、その前の、どう闘うかについてです。闘うという発想は、一番最初に排除したつもりですが、僕たちには正確無比な弓術と、神聖術があります。
「ハル…あいつは僕たちを見逃すか?」
「そんなわけねぇ…魔物はそう言うやつだ…。オレだけなら逃げ切れるが…オメェらは無理だ…」
森の中の追いかけっこは、あちらに分がある。逃げられない。ならばやはり、どうにかダメージを負わせて、撃退するか、逃げる隙を作るか、討伐するしかありません。
この恐怖に、僕は抗わねばなりません。
「ハル、あいつに弓は通じる?」
「身体は無理だ。目か耳の穴ならいける」
「シーナ、神聖術はどのくらい遠くまで作用する?」
「遠くなれば効果は落ちます。わたくしの半径五メートルが最大で、二十メートルになればほぼ効果はありません」
「君の神聖術は、物に直接作用するものだね?」
「え、えぇ、そんなところです」
神聖術は物理法則を歪める、物理法則の力だと、僕は推測します。何かを媒介しないで直接作用する力。まるで重力のようなものですが、その発生源たるものもありません。つまり完全なる物理シュミレーション。実験道具を要さない実験システムです。これは憶測を超えて妄想の域ですが、神聖術とはそういうものに思えます。
「僕に考えがある。上手くいけば殺せる」
「勝算はあんのか?」
「五分五分、でも逃げられる確率も上がる」
「へぇ…今の兄ちゃん好きだぜ」
「一人で逃げなくていいの?」
「ばかやろう、金は命よりオメェんだよ」
ハルはそう言って不敵に笑いました。なんて心強いのでしょうか。
それから僕は、シーナに向かって言いました。
「シーナ、僕に命を預けられる?」
「元よりそのつもりです」
シーナは真剣な眼差しで即答しました。僕の中に沸々と湧き上がるこの反骨精神は、彼女の青色の瞳に導かれているのでしょう。
「じゃあ…真面目に巨熊討伐と行きますか」
「はい!」「おうっ」
※
まずはゆっくりその場を離れ、熊と僕らの間に遮蔽物がない状況を作ります。熊の顔の幅だけ、射線が通ればいいのです。
僕たちが移動している間、熊は警戒しながらも、ジリジリと距離を詰めてきており、熊との距離は残り百メートルしかありません。
ちらっと見れば、百メートル離れていてもその巨体が分かります。三メートル以上はありそうです。
二人に合図を出します。シーナは僕から五メートルほど
今回一番負担が大きいのはハルです。ハルの弓の腕に全てがかかっているのですから、ハルのプレッシャーは相当なものに違いありません。
なので、ハルには十分に集中する時間を——。
僕の足元に、一本の矢が刺さりました。合図です。なんで僕よりも早く、心の準備ができるんだか。やはり彼女は天才です。
僕は何も考えることなく立ち上がりました。全て彼女のタイミングに合わせると、そう言いましたから。
剣を抜き、今までで一番大きな声で叫びます。
「おい熊野郎っ!!!!かかってこいやぁっ!!!!」
「ガァぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
僕の挑発によって、膠着状態が一瞬にして瓦解しました。熊は僕に向かって猛突進します。僕の仕事は、これで終わりです。
「シーナ、タイミングは任せた!」
「はいっ!主よ、豊饒なる天と地を繋ぐ恵を広げさせ給へ…」
シーナの神聖術は熊に致命的なダメージを与えるものと同時に、万が一の時の安全装置でもあります。
僕は、もう彼女らを信じることしかできません。ただただ、猛然と襲いくる熊を睨みつけ、決して逃げずに、対峙し続けるのです。
僕の耳を、鋭い風切り音が横ぎりました。
瞬間、熊の片目が貫かれました。
「グァぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!!!」
叫びながらも、突進をやめません。しかしあと一本、あと一本の矢が、もう片方の目を貫けば、勝ちは確定します。そうなれば、僕は横の茂みに飛び込んでやり過ごします。
二本目。今度は反対の耳を、鋭い風切り音が横切ります。
「ちっ、しくじった!」
警戒されていたせいで、二本目の矢に対応されました。熊との距離二十メートル…十メートル…。
「エアエクスパンション!!」
刹那——。膨大な空気が広範囲に押し広げられました。僕と熊の中心から、遍く気体分子が瞬間的に離れます。
空気が空気を押し、その空気が空気を押し、微小時間でそれらが連鎖することによって、大気にとんでもない振動が伝わります。
耳をつんざく轟音。平衡感覚を失うような甲高い音が耳の内側で反響します。
僕は空気に押されるように後方へ吹き飛ばされました。高気圧によって身体が軋みます。内臓もいくつか壊れました。
しかし、これだけで済んだ僕は幸運です。不幸なのは、あの巨体で爆発に突っ込んで行った熊です。
僕を吹き飛ばした空気は、熊の突進する速度を大分殺します。それでも熊は止まりませんが、きっと止まらざるを得なくなります。たぶん。
僕が食らったものより強い衝撃と高気圧、そして直後の真空状態。これにより体内の空気が急激に膨張し、それに耐えられない肺が破裂。破裂してなくても、呼吸はできません。それに目には見えませんが、おそらく今熊の血液は全て沸騰しています。たぶん血管の至る所が破裂し、きっと血流が遮断されます。ひょっとするとあと数秒で昏倒します。
肺が破裂するかもしれない、というのは有名なので知っていますが、それ以外はただの推測です。現に熊が動きを止めて、地面を滑っている理由が分かりません。
シーナは…よかった吹き飛ばされていません。木が守ってくれています。でも、身体をだらんとさせているのを見るに、意識が朦朧としているでしょう。おそらく神聖術は既に解除されています。
僕ももう動けません。全身が痛い。息もし辛い。意識も朦朧としています。よく今までもったと思えるくらいです。この後、熊が死ななければ、混乱した奴の目に今度こそ矢を当てて、死ぬまでハルがヒット&アウェーをする計画でした。それに死にそうになければ、熊を僕とシーナから十分離して、後から合流する、というものだったのですが、結構あっさり決着が付きました。
しかしまだ油断なりません。おそらく昏倒していますが、すぐに起き上がるかもしれない。ハルにはトドメを刺して貰わないと…。
「お、おい、大丈夫かっ、オメェ結構やべぇぞっ、おいっ」
「ハ…ル…とど…め…を…」
「後でなっ、ねぇちゃん持ってくっからっ」
ハルは、歩く力も残っていないシーナを引きずってきました。上を見上げると、ちょうど月が真上にあって、綺麗でした。
「ユウ…さん…ユウさんっ…」
ハルは僕の近くにシーナを横たえました。それから熊の方に歩いて行きました。
シーナは僕の名前を呼びながら、僕の体をよじ登るようにして乗っかりました。とっても痛いです。
「なんで…こんな…ほね折れて…ここも…」
彼女は僕の身体をペタペタ触りながら、悲壮感を湛えた表情で言いました。僕の身体に、水滴が落ちます。シーナは蒼い瞳から大量の涙を流していました。
「知ってたんですかっ…こうなるって…」
「は…はは…よ…そう…い…じょ…かも…」
彼女は僕の頬を両手で挟みながら言いました。骨の一本や二本は覚悟していましたけど、ここまで酷いとは思っていませんでした。恐るべきソニックブームです。鼓膜が破れていないのは奇跡かもしれません。こうやって心配される声が聞けるのは、ある意味幸せです。
「やだ…やだ…主よ、汝の苦しみを癒しに、ひっ…」
詠唱が途中で止まりました。おそらく魔力切れでしょう。
「ぼ…く…ので…」
シーナに魔力を送ろうと、左手を上げましたが、激しい痛みが走ってあげられません。まるで身体が膨れているような、そんな感じなのです。僕も少なからず真空の影響を?それはないはずですが…。
シーナは僕意図を汲んで手を握りました。魔力を流し終えると、また悲しい顔をします。
僕の魔力で、多少の怪我なら治ると思っていたんです。でも無理そうです。
「主よ、汝の苦しみを癒しに、ヒーリング…こんなのじゃ足りませんっ!」
温かい光が僕を包みます。神聖術は痛いだけではありませんでした。さっきので、結構神聖術のことが嫌いになったのですが、取り消しておきます。
「ハルさんの魔力をっ!」
「ちょっと待っとけっ!」
「なんで!!ユウさんが死んじゃうんですよっ!?ねぇっ早くっ!!」
「待っとけってうるせぇな」
こんな時に喧嘩はやめて貰いたいものです。僕は痛みを我慢してシーナの手を握りました。意識が朧げです。呼吸がもっとし辛くなりました。やはり肺に損傷があるのかも知れません。あと頭にも。
「あ…き…」
「ユウさん…ユウさんっ…」
こんな時に思い浮かぶのは、やっぱり娃綺ちゃんでした。僕の想いはやはり究極的な進化を遂げていたんです。シーナに傾いていたのは、ただの生理的な部分と少しの友情だけで、浮気なんかこれっぽっちもしてません。たとえ同じベッドで寝ようと、僕の操は娃綺ちゃんのものですから、何も疚しいことなんてないんです。
僕はゆっくりと瞼を閉じました。この世界との縁が、そろそろ断ち切られるのでしょう。そうしたら、きっと——。
娃綺ちゃん…死んだらそっちに行けるのかな…。だってこれは嫌な夢で…起きたら夕暮れの教室にいるんだよね?隣には君が居て…僕が起きるの待っててくれて…それから——。
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