83 申陽は嫁入り道中の金玉をのぞき見るのこと

 申陽は自宅に帰って、懶惰らんだな日々を過ごしていた。


 かつて自分は、風鈴被害によりノイローゼ状態となり、しばらく休職していた。

 おかげで気ままに旅をすることができたが、金玉は帝に足をなめさせた……。


 酒浸りで、何もする気にならない。

 仕事だってそうだ。


 申陽家の従僕たちは、内心「旦那さまはお嫁さんを連れて帰ってくるのかな」と期待していたが、見事にアテがはずれた。


「旦那さま、フラれたのかな……」

「そうでしょうねえ」

 彼らはひそひそと言い交わし、さわらぬ神にたたりなしとばかり、そっとしておいた。


「金玉、なぜっ……」

 申陽は私室でワンカップ酒をのみながら、くだをまいていた。


「私以外の男に足をなめさせるなんて、許せない!」


 金玉が、帝と一緒にスコーンを食べたとかより、ポイントはそこであった。

 仮に金玉と帝が契っていたとしても、金玉が「足だけはダメっ、なめさせない!」とがんばっていたら、また違っていただろう。


 ――そうこうするうちに、金玉の結婚式の日がやってきた。

 

 もう過去のことは忘れて、マッチングアプリで相手を探そう……。


 申陽はそう思うものの、どうしても明月鏡が気になる。

 それは赤い通知マークのように、申陽の心をざわつかせる。


 この鏡をのぞけば、たとえ万里をへだてていようと、相手のことがわかってしまう。


 今宵、金玉は帝と結ばれるのだろう。

 そしてあいつの頭を踏んでやって、足をなめさせて、さらに自分の体を与えるとか……。


 ああっ、そんな姿、見たくない!

 だが、鏡があっては見てしまう……ぜったい……今までと同じく。


「ええい、こんな魔鏡があっては、世のためにならぬ!」

 

 通知をオフにする精神力がない申陽は、金づちをもってきて、鏡を打ち壊そうとした。

 

「――ま、待ちぃな!」

 いきなり、妙に甲高い男の声が聞こえた。


「ん?」

「落ちつかんかいっ、暴力反対やで!」

 その声は、どうも鏡から聞こえてくるみたいだった。


「あんさんが、わての新しい持ち主かいな?

 いやぁー、長い間、ずっと寝とってなあ。

 わて、明月鏡のキョウちゃんや。よろしゅうな」


 ――エセ関西弁ッ……!

 どこの地方でも絶対に話されていない、アニメ収録現場だけの特殊関西語だ。


「わかった。割れないように包んで、不燃物ゴミの日にだそう」


「へっへっへ、わて、神鏡しんきょうでっせ?

 兄さんが何を見たいか、わかってまっせ。映してあげまひょか」


「『~~ひょか』などという奴はいないッ!」


 ――金づちをふりあげた、その時!


 *


 金玉は緋色の布を頭からかぶって、大きな輿に揺られている。


 これは結婚の時に花嫁が身につけるもので、花婿はそのヴェールをとって、花嫁と初夜を迎える、という段取りだ。


「いよいよ結婚だピョンね~」

 金玉の膝に座っていた兎児がいった。


 金玉は自分で赤いヴェールをちょっとあげて、うなずいた。

「うん……」


 その抜けるような白い肌に、赤い色がよく映えていた。だが、その表情は冴えなかった。


「どうしたピョン? 酔ったピョン?」

「本当にこれでいいのかな……帝がぼくの運命の人なの?」

「今さら、何いってるピョン! もう帝で決まったピョン」


「でも……」

 金玉は、申陽と交換した手巾ハンカチを取りだして、手に握った。


「あっ、前の男からもらったやつピョン。そんなの、雑巾にしちゃえばいいピョン」

「だめだよ!」

「だめもなにも、もう過去の男ピョン」


「そうだね。申陽さんは、いなくなっちゃった。ぼくが、帝とアフタヌーンティーしたからだよ……」


「そんなのしょうがないピョン。帝には逆らえないピョン」

「でもっ、もっとぼくが抵抗してれば……そしたら、あんなことには……」


「無理だピョン。だって、帝を招待したのは金玉パパだピョン?

 パパが、ああいうことをお膳立てしたピョン」


「でもっ、ぼくが申陽さんを裏切ったのは、変わらないじゃないか!

 申陽さん、きっと傷ついてる……ごめんなさい……」


 ――前夜、肝油の心を凌遅刑りょうちけいのごとく切り刻んだ金玉であるのだが!


 凌遅刑とは、人間の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり、言語に絶する苦痛を与える処刑方法で、これ以上に残酷な刑罰はないと評されている!


「ううっ、申陽さん……」

 金玉は、手巾で顔をおおって泣き出した。

 

 *


「金玉……」

 申陽は鏡のなかの金玉の涙を見て、ふりあげた金づちをおろした。


「ほ~れ、どないや。泣いとるやん。

 おおかた、親が金持ちの男と結婚させたかったんやろ。

 ほんで、その男に貞操を奪われて泣く泣く結婚する、てな筋書きやろ?

 ようある話やで」

 

 明月鏡はさっきまでぐうぐう眠っていたので、ちょっと事情を誤解していた。


「くっ……だが、もう私にはどうしようもないではないか」

「へっ、ケツの穴のせまいやっちゃで」(奴だな)


「許さない私が悪いみたいな言い方はやめてくれ!

 恋人が、私の目の前で、他の男に足を……それがどんなにつらいことか!」


「そない言うけどなァ。

 ほれ、そこのアレ。えーと、その虹色のやつ」

 明月鏡も、さすがに張形はりがたとは言いにくいようだった。


「ああ、これか」

 その何かは、机のうえで、いまだに虹色に神々しく光っていた。


「あんた、それであの子の呪いを解けて、いわれたんやないのォ?

 そのこと、どないしますのん?」


「それこそ、夫婦にならなければできないだろうが!

 こんな……こんな太いものをっ!」


 申陽が張形をもってわめいていた、その頃――。


 洞庭湖にかかる陽の光が、急に弱くなった。

 ひゅう、と冷たい風がふく。


 そして一点にわかにかきくもり、ぽつ、ぽつっ、と雨が降り出した。

 雨はやがて驟雨しゅううとなり、あたり一帯を覆っていく。


 湖面がゆらっ、と揺れた。

 鳥は雨のなかを逃げ惑い、アナグマも穴から出て、魚さえも陸に上がろうとする始末だった。


 ――湖面を立ち割って、現れでたるは!

 それは、かつて誰も見たことがない、黒くて太くてぬめぬめした化け物だった。


 形は蛇やウナギに似ていたが、体表には、うぞうぞとうごめく触手が毛のようにびっしりと生えていた。

 それは何かを探すように首をめぐらせてから、黄河に通じる水路を探すため、また再び水中に没した……。


 以下、次号!

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