42 申陽は人と獣の心の間で引き裂かれること

「申陽さん、だめっ」

 申陽の下で、金玉はその腕から逃れようと、必死にもがいた。


「おかしいよ、こんなの」

 だが、美少年の細腕でかなうわけはなかった。


「お願い、もうやめて……」

 金玉の声は、涙まじりのものとなっている。


「――ちがう……ちがうんだ!」

 申陽は金玉から体を離し、大声でいった。


「金玉! 君はいま、けがらわしい猿の化け物に犯されようとしているんだぞ!

 いいかげんにしてくれ! それが妖魔に手籠めにされかけている美少年の表情か?」


 申陽の厳しい演技指導が入った。


「さあ、私の腕を見てみろ。白い毛が生えているだろう。

 まさに猿の腕だ。人間じゃないんだ。

 こんな腕につかまれるなんて、おぞましいことだろう?」


 金玉は内心「いや、そこまでは……」と思った。


「君は地にひきたおされ、忌まわしい化け物の子種を注がれようとしているんだぞ。

 イヤだろ? 考えただけでも、ゾッとするだろう。

 だから……もっと激しく抵抗して! 私を卑しい豚だと罵って、ツバを吐きかけるんだ!」


 申陽はこれまでの旅路で、己の本然を悟っていた。

 金玉から冷たい眼で見られ、豚めと罵られたい――その欲念は止められなかった。


「そ、そんなのできないよ」

「やるんだ! アカデミー賞がほしくないのか?」


「いや、こわいっ……父さん母さん、たすけて……」

 金玉は、あまりの恐ろしさで動けないようだった。


「ちがう、そっちの路線じゃない!

 君は私の腕にとらえられながらも、あくまでも美少年としての矜持は失わないのだ!

 私をひっかき、侮蔑した目で見て、平手打ちして……そして罵倒するんだ!」


「――このウジ虫が。汚ねえモンおったててんじゃねえよ。いっぺん死ぬか?」


「よし、それだっ! カットォー!」


 申陽が撮影終了の合図を出すと、金玉がその背後を透かし見てつぶやいた。

「肝油……」


「おら、どけっ。エテ公が!」

 肝油は抜き身の剣を持ったまま、申陽を足蹴にした。


「金玉、助けにきたぞ」

「肝油……!」

 金玉は跳ね起きて、肝油に抱きついた。


「よしよし、もう大丈夫だぞ」

「ぼく……こわかった……」

 金玉はぐすぐす泣きながら、肝油の胸にすがりついている。


 ――なぜ高イビキをかいていた肝油が、こんなにもすぐ現れたのか?

 それすべて、童貞神どうていしん兎児とじの、玄妙通霊げんこょうつうれいなるご加護のおかげであった!


「悪夢を見て、急に目が覚めたんだ」

 肝油はとってつけたようなことをいい、金玉をしっかりと抱きしめた。

 

 二人はぴったり密着している。

 恋愛ゲームで例えるなら、好感度がマックス近くに達したというところだ。


 申陽は彼我の差を見て、奈落の底に突き落とされた……。


「てめえとは、いずれ決着をつけなきゃならねえと思ってたんだ」

 肝油は、申陽にすちゃりと剣を向けた。


「肝油、やめてっ! みんな満月のせい……ぼくのせいなんだ!」

「おめえは悪くねえだろ」

「そうだ! きさまが金玉を穢したせいで……」


「もうやめて……二人とも、ぼくのために争わないで!」


 金玉は、本物の美少年にしか許されないセリフを吐いた。


「へっ、化けの皮がはがれたなあ、クソ猿よ。

 どうせ裸で四つん這いになって、その背中に金玉をのせて『早く走りなよ』と命令されて、尻を鞭で叩いてほしいとでも思ってたんだろうが?」


 ――一言一句たがわず、まさにその通りであった。

 だが……肝油はなぜそのことを理解できるのだろうか?


「くっ……」

 申陽は己の欲念のあさましさをつきつけられ、

 ひらりと身をひるがえして、木立ちの暗闇に逃げ去った。


 *


 ――いったい、己は何者なのだろうか。

 申陽は桃の林の間を駆けながら、自問自答していた。


 私は人と妖怪の子として生まれ、経書けいしょ章句しょうくをそらんずることもできる。

 しかるに、金玉に対するあの振る舞いは何なのだろうか。

 あの白い手で平手打ちしてもらい、桃色の唇から出る言葉で罵倒されたい……。


 申陽は己の特殊性癖をふり返るに、情なく、恐しく、いきどおろしい思いになった。


 先刻私は人の心を忘れ果て、一匹の猿として狂い廻り、君の服を裂き、その身を喰ろうて、蹂躙せんとした。


 己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、そのことを、この上なく恐しく感じているのだ。

 ああ、全く、どんなに、恐しく、かなしく、切なく思っているだろう!

 私は君を愛しているはずなのに……。


 ――ええい、こんな媚薬!


 夜合丸やごうがんをぽいと闇夜に投げ捨てた。

 今になると、こんな薬に頼ろうとした自分が、ますますみじめに思えるのであった。


 申陽が人の心と獣性の間で引き裂かれ、月を仰いで咆哮しようとすると――。


 暗闇のなか、怪しい人影が動いていた。

 彼は背中に大きな桶を背負って、ひしゃくを持っている。

 ひしゃく……?


 申陽は不信に思って、声をかけた。

「おい、何をしている?」


「――うわっ! その声は……あんたですか。

 いやはや、どうもあんたとは奇縁がありますなあ」


 薬売りは申陽に近寄ってきた。


「で、あの薬は使ったんですかい?」

「いや……」

 たった今、捨てたばかりだ。


 薬売りは月の光の下で申陽の顔をまじまじと見て、いった。 

「美少年にフラれた、ってな顔をしてますね」


 フラれたどころではない。

 決定的に破局してしまった。

 申陽が黙っていると、薬売りはにやにやしながら続けた。


「ま、見たとこあんたは妖怪だ。猿の化け物だ。人外だ。

 お仲間のましらならいざしらず、

 人間の貴公子と結ばれるのは、ちょいと難しいんじゃないですかねえ?」


 薬売りは、見てきたようにいう。


 申陽は「私の母は人間だ」といおうとしたが、

 先ほどの己の振る舞いの、どこに人の心があるだろうか。

 恥じ入って、そのまま黙っていた。


「ヘンに我慢しないで、化け物なら化け物らしく生きりゃあいいんですよ。

 どうです、ちょいとあっしの仕事を手伝ってくれませんかね?

 そうすりゃ、浮世のうさを忘れる薬をいくらでも作ってあげますよ。

 美少年をとりこにする薬でも、なんでもね」


「……記憶を忘れる薬はつくれるか?」

 申陽は、ハタと思いついていった。


「ええ、そんなの、簡単ですよ」

 

 金玉は、さっきのことでとても恐ろしい思いをしただろう。

 もう、私のことなんてすっかり忘れてもらおう。

 そして肝油と結婚して、幸せになればいい……。


「私は何をすればいいんだ?」

「べつに、たいしたことじゃないですよ。まずは――」


 闇堕ちした申陽は、うかうかと悪の手先の誘惑にのってしまうのであった……。


 以下、次号!

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