エピローグ

 十二月二十六日、つまりクリスマス翌日の昼過ぎ、美典は水希に呼ばれて彼女の家に向かっていた。

 バイクを家の前に止めると、インターホンを押す。しばらくすると、中から反応があって、玄関の扉が開いた。現れたのは水希ではなく、弟の方だ。


「こんにちは、天城さん」

「こんにちは。水希、いますか?」


 はい、と言って美典は家に案内された。「二階に来てくれって言ってました」といって彼は居間に行く。テレビでも見てるのだろうか。

 二階に上がると、コンコン、と水希の部屋の扉をノックする。すぐに「あ、入って、美典」と応答があった。

 一瞬ためらったが、美典は扉を開けた。そこには、今までと何も変わらない水希がベッドに腰かけている。


「ごめんね~。英語をちょっと見てもらいたくって」


 実際のところ、それは呼び出す口実だろう。


 センター試験まで後一ヶ月もないこの時期は、もう問題集などで勉強するのが普通で、人に頼る事などあまりない。が、水希は試験前にもよく美典をよく呼び出していた。英語を教えてもらうという口実で――勉強もする事はするが――おしゃべりをしたりしていたのである。

 もともと水希は英語が苦手というほどではなく、いまさら切羽詰って勉強するほどの事もないのだ。


 だが、今日は美典は気が重かった。彼女がクリスマス・イブの事を覚えている可能性があるからだ。

 水希に会うのはクリスマス・イブの夜以来だ。もっとも水希があの夜の事を覚えているかは定かではない。


 あの後、『宿場町』のメンバーは大急ぎでランドマークタワーから撤収し、幸いにも誰にも見られる事はなく、水希を家に送り届けた。彼女の弟が友人の家のパーティに呼ばれていたのが幸いしたし、両親もまだ帰ってきていなかった。

 あの時、水希はずっと気を失っていたと思われるが、あの状態でも何かを見て、それを覚えている可能性はある。

 人間ではなかった自分を水希に見られた可能性は、否定できない。


 妖怪の中には記憶を操作する力を持つ者もいるらしく、最悪、それで記憶を消してもらう事にはなっている。だが、その妖怪は今は忙しくていないらしく、対応するとしても年明けになってしまうらしい。出来ればその間は会いたくなかったのだが、「絶対来て」といわれては断る理由がない。

 とにかく他愛ない会話を、と思った矢先、いきなり水希から切り出してきた。


「一昨日の夜、さ」


 美典は自分がびく、と震えるのを自覚した。それに気付いたのか気付いていないのか、水希は言葉を続ける。


「美典に会った気がするんだ。違う?」


 美典はどう答えるべきか混乱し、頭の中で考えがぐるぐると回っていた。ウソをつく自信はない。だが、もし彼女がおぼろげでも、クリスマス・イブの事を覚えていたら。


「私ね、あの夜、天使を見た気がしてるの。すごく怖い天使と、とても優しい天使と。怖い天使が、私を殺そうとしてね、それを優しい天使が助けてくれた」

「…………」

「夢だったのかもしれない。でもあの、雪の聖夜に降りてきた天使は、すっごく素敵だった。それがね、なぜか美典に見えたの」


 多分今の自分は真っ青になっている。それを美典は自覚していたが、どうにも出来なかった。


「で、起きたら自分のベッドで……どうしてそんな夢を見たのかも分からないのだけど……ただ、ね」


 水希は固く握られ、わずかに震えている美典の手に、自分の手を重ねた。


「私にとっては天使だろうが悪魔だろうが、なんであろうがどうでもいいの。美典が私を助けようとがんばってくれた。そうでしょう?」


 美典は驚いて顔を上げた。水希は、にっこりと笑って頷く。


「私にとって、美典は誰よりも大事な友達。それは美典がなんであったって、変わらない。……私はそう思っているんだけど、美典は?」

「~~~水希っ」


 美典は思わず水希に抱きついていた。勢いあまって、そのままベッドに倒れこむが、その勢いでそのまま押し倒された水希は、壁に頭をぶつけてしまった。

 ゴン、というやや痛そうな音が部屋に響く。


「痛っ」

「あっ、ご、ごめんなさいっ」

「痛たた……あのねぇ、いきなり抱きつかないでよ。私、美典の事は好きだけど、恋人にするのはカッコいい年上の男の人って決めてるんだから」


 そう言ってから、水希は小さく舌を出す。


「でも、外国の人はしばらく遠慮かもね」


 しばらく見つめあった二人は、どちらからともなく笑い出した。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「大丈夫そうですね、彼女らは」

「そうね」


 希佐奈はそういうと、これ以上は不要、と言うように水晶球から映像を消す。それには先ほどまで、笑いあう少女が二人、映っていた。


「で、≪バロウズ≫からはなんて?」

「天使であるといっても、天城美典は同時に人間でもある。おそらくすでに『神』の意思からも離れているだろうってことで、他の妖怪と一緒に扱うって事になるようです。一応、うちの所属と言うことで今度交渉しようかと」


 薫の言葉に、希佐奈やリージアが頷く。


「そうそう。あのラスイルの言葉が気になって調べてみたんだけど」


 リージアが、どこから持ち出したのか、非常に古めかしい大きな本を取り出した。


「イシュリエルという天使は、ミルトンの『失楽園』に名前がある天使で、エデンに潜入したサタンの正体を暴いた天使らしいわ。ただ、イシュリエル本人はかなり古い天使みたいだったから、あるいはもっと昔に記述があったのか、それは分からないけど」


 そういって彼女は、ぱらぱら、と本をめくる。


「調べてみて分かったのだけど、あの千五百年前の戦いで、天使はすべて封印されたわけではなかったみたいなの」


 千五百年前に行われた神と天使を封じた大戦は、妖怪側の勝利で終わり、神と天使はことごとく呪いによって封印された。

 その呪いが破れるのは第二次世界大戦まで待つ事になるのだが、千五百年前の時でも、数十万ともされる天使全てを封じるには至らなかったらしい。


 そして封印を逃れた生き残りの天使は、神を失って、その拠り所をローマ教会に求めた。以後、ローマ教会は密かに天使を守護者として取り込んでいったという。

 イシュリエルやラスイルもその一人だったらしい。


 だが、人間の中で暮らしていれば、自然、その影響を受ける。

 ローマ教会に属した天使たちの多くは、ヨハネ黙示録で与えられた役割を忘れ、人類――ローマ教会の守護天使へと変わっていったという。


「で、ここからは推測ですけどね。ラスイルの言葉と、天城さんが聞いたというイシュリエルの話、それに記録を組み合わせると、ですが」


 一三二〇年、当時のローマ教皇ヨハネス二十二世が、魔女を異端とすると宣言する。

 その後、十五世紀から十七世紀にかけて、地域によって違いはあるが、異端者としての魔女を狩る動きが活発化する。いわゆる『魔女狩り』だ。

 教皇の宣言は、この端緒となった出来事と言えるだろう。


「で、これに反対した守護者がいたらしいの。名前は分からなかったのだけど。ただ、当時魔女狩りは始まってはいなかったけど、彼女イシュリエルの力を考えたら……多分視えたんでしょうね。そしておそらく、それに反対した。その守護者は裏切り者として断罪された、とあるけど……」


 そこまで聞けば、薫らにも分かる。

 実際には、イシュリエルは遥かこの東洋の島国まで逃げてきていたというわけだ。そして、人の中に紛れ込み、子をなし、その力が彼女に受け継がれた。


「そういえば、あの天使……ラスイルはなぜ篠崎さんを?」


 希佐奈が不思議そうに訊ねる。

 確かに今回の事件、そのラスイルの勘違いがそもそもの発端だ。

 あるいは最初からラスイルが美典に目を付けていたら、どうなっていたか。


「それなんだけどね。調べてみたら、天城さんと篠崎さん、親戚なのよ。といっても、四百年くらい家系を遡って、ようやく親戚だって分かるレベルだけど。で、ラスイルって天使の言葉、覚えてますか?」

「ああ、なるほどね」


 偶然、篠崎水希はかつてのイシュリエルと同じ魂の色を持っていた、というわけだ。魂の色、などというのは正直よく分からないが、天使には、少なくとも彼には見えていたのだろうが、それゆえに彼は勘違いしたのだろう。

 あるいは。


「篠崎さんも天使の力を宿している、なんて……ことはないか」

「どうかしらね。生まれ変わりなんて呼んでるけど、要は先祖がえりみたいなものですしね」

「まあその時は、天城さんが今度はいい支えになってくれるだろう」


 薫はそういうと、コーヒーを一口飲んだ。

 苦みばしった液体が、喉を潤していく。


 街では、すでにクリスマス一色だった雰囲気は消え、新年の飾りがあちこちにあるだろう。

 もうすぐ今年も終わり。

 最後になって大事件といえる騒動があったが、さすがにこれ以上はないだろう。


 新たな仲間を迎えるのは新年になりそうだ。確か彼女は、明後日から実家に行くらしい。

 家族に打ち明けると言っていたが、こっちは友人よりもすんなり行くだろう。


「よい年を」


 誰に言うでもなく、薫はコーヒーカップを掲げて、一人呟いていた。

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