聖夜に降りる天使

和泉将樹@猫部

第1話

 空を飛んでいた。

 飛べることは、奇妙には思えなかった。自分の体を支えるのは、光の翼。そんなものがあるはずはない、とどこかで考えているのに、それは不思議でもなんでもなかった。

 なぜなら、それはあって当然のものだから。


 大地は遥か下にあって、太陽の輝きを受け、緑の大地が宝石にも似た輝きを放っていた。

 一体どこだろうか。

 どこまでも続く緑の大地の中の、わずかに開けた場所に家らしきものも見える。人影は見える気もするが、あまりにも遠くてよく分からない。


 どこまでも高く、速く。


 その時になって、何かから逃げていることに気がついた。

 何かが、背後から来る。それから逃げている。


 けれど。


 あ、と思った。

 背中に、焼けるような痛みに似た衝撃が走る。

 世界が回る。

 見る見るうちに、大地が大きくなる――。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「きゃあっ」


 がば、と。

 文字通り、布団を跳ね上げて飛び起きた。

 ぐっしょりとかいた寝汗で、肌に張り付いたパジャマが気持ち悪い。

 呼吸も荒い。


 背に感じた痛みは、あまりにもリアルだったが、それが夢であるのは明らかで、実際今は何の痛みもない。

 呼吸が落ち着くと同時に、ぶる、と身震いした。当たり前だ。今は十二月も半ば、いくら地球温暖化が叫ばれようが、十二月ともなれば、寒いことに変わりはない。

 時計を見てみると、午前五時半。外はまだ暗く、そして一番冷え込む時間である。


「寒っ」


 まだ学校までは早い。だが、一度冴えてしまった頭は再び眠りに落ちてはくれそうにない。加えて、昨日は久しぶりに二十二時前に寝た。睡眠時間は十分だ。それに、横になっても汗が気持ち悪い。


「うん、シャワー浴びちゃおう」


 声を出したのは、少しだけ心細かったからである。半年前まで、家族四人で一緒に住んでいた家に、今は一人だ。慣れたとはいえ、真夜中などは少し心細くなることがある。

 ベッドから出ると、風呂場に行く。汗で濡れたパジャマを脱ぐと、そのまま洗濯機に放り込んだ。

 少しだけ温度を高めに設定したシャワーは、先ほどの夢の感覚を、眠気と一緒に流してくれるようであった。





 ――見つけた――




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「み~の~り~~、何呆けてるのっ」

「み、水希っ、危ないって」


 がば、と。そんな音でもしそうな勢いで、同級生の篠崎水希が、首に抱きついてきた。重心はかろうじて前よりだったので、引きずり倒されるのを、かろうじて堪える。


「だって、美典、ぼーっとしてるんだもん。隙だらけだから、つい」

「隙だらけって……あのねぇ」


 呆れたように言いながら、水希を引き剥がすと、彼女に向き直った。その水希は、悪びれもせず、くすくすと笑っている。ショートカットより少し長めにカットされた髪が、それに合わせて少しだけ揺れる。


「でもホントに呆けてるわよ? やっぱ、受験がもう終わっちゃって、気が抜けた?」

「別にそうじゃないわよ……ちょっと夢見が悪くて、ね」

「夢見?」


 水希は好奇心を全開にして身を乗り出してきた。


「うん、あのね……」


 口を開きかけた時、ホームルーム開始を告げる鐘が鳴り響く。それを待っていたかのように、担任の井上先生が入ってきた。


「あ、あとでね」

「うん」


 それだけ言うと、二人は自分の席に着いた。





 今度こそ――逃がしはない――


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 天城あまき美典みのりは、十八歳になる普通の女子高生である。

 ただ、現在の生活環境は、普通とはやや異なるだろう。

 一人暮らしをしている女子高生は、多くはなくとも一般的だろうが、3LDKのマンションを一人で占領して過ごしている女子高生は、非常に少ないに違いない。

 これは別に、彼女の家が特別に裕福であるわけでは、ない。

 また、両親を亡くして、遺産としてそのマンションを受け継いだ、というわけでもない。


 今年の五月までは、同じマンションで家族と過ごしていたのである。

 父は、警察のいわゆるキャリアだった。

 ただ、やや実直なきらいがあることと、本人が元々警察庁にいるよりも地方警察の現場にいることを――キャリアにあるまじきことに――好んだため、神奈川県警へ出向し、地元の警察署の署長を務めていた。それでも順当にいけば、神奈川県警の本部長も間近だったのだが、いきなりそこで警察を辞めてしまった。


 別に、他意があったわけではなく、家業を継ぐことにしたからであるが、出世レースに嫌気が差したのではないか、と美典は思っている。


 天城家は、元々は岐阜県出身の士族らしく、一応本家らしい。家系図を辿ると、平安期あたりまで遡れるらしいが、これは怪しいものだ、と思っている。

 その様な古い家柄ではあるが、旧態依然とした堅苦しい風習などほとんどない。家業というのは造り酒屋で、これは酒通の間で人気らしいが、お酒をあまり――家が家なのでたまには飲んでいた――飲まない美典は、良くは知らない。

 ただ、自分の実家で作ったお酒が一番美味しい、とは思っている。


 そんなわけで、突然岐阜に引越し、となったわけなのだが、その時美典はすでに高校三年生で、受験も控えていた。

 結局家族会議で、美典だけがこちらに残って、両親と妹――まだ小学六年生――だけ岐阜に行くことになったのだ。元々美典の志望校は関東の大学だったので、いずれは一人暮らしをすることになるのだから、早くても問題はない、と言ったのは放任主義を自認する父だった。


 で、新たに部屋を借りるのも面倒だし、家のローンももうそれほどなかったことから、美典はそのまま、それまで家族で住んでいた家に一人で住むことになったのである。

 駅から歩いて十分程度で、春になると桜がきれいな川沿いにあるこのマンションは、美典も気に入っていたので、この決定は喜んだ。以前から、一人暮らしをしてみたい、という願望があったというのもある。


 そんなわけで一人残った美典だが、受験は早々に終わってしまった。

 第一志望の大学の学部が、今年から一般推薦入試を実施していたので、出願したら合格してしまったのである。英語は得意だったから、受験にはそれなりに自信はあったが、志望しているのは社会学系であり、これは予想外だった。


 というわけで、高校三年生が受験勉強に勤しむこの十二月に、美典は一人暇な時間を持て余すことになったのである。


「よーやく終わったー疲れたー」


 一日の最後の授業の終わりを告げる鐘が響き、教師への礼が終わると、篠崎水希は「疲れた~」と両手を机の上に投げ出した。

 掃除当番に当たっている生徒以外は、めいめい、下校の準備を整え、帰りのホームルームに備えている。

 さすがにこの時期になると、参考書や単語帳を広げている生徒が多い。


 美典らが通う高校は公立高校。地区のトップ校ではないが、進学率はほぼ百パーセント近い数値を誇る学校で、地元でもそこそこに優秀な生徒が集うということになっている。そのため、これから受験本番となる生徒達は、勉強に余念がない。

 今日は十二月二十日。すでに授業などほとんどなく、二年生以下はもうすぐ始まる冬休みを楽しみにしているが、三年生にそんな明るい冬休みなどというものはない。一部を除いては。


「お疲れ、水希」

「美典はいいね~。受験終わってて」

「それはそうだけど……逆に居にくいわよ、ちょっと」

「あ~、まーねー」


 そういう水希も受験はこれからなのだが、実は彼女の成績は学年でもトップクラスである。美典も成績上位者の常連ではあるが、彼女より高い点を取ったことがあるのは英語だけだ。これは、子供の頃に英国で暮らしていた経験があるからである。

 美典と水希は、この学校の入学式で出会った。クラスが一緒で、席が隣同士だったのだ。それで、仲良くなって、気付いたらもう三年である。

 特に、美典が一人暮らしになってからは、何回か泊まりに来たこともある。


「で、今朝見たっていう夢。その、痛みを感じたあとは?」

「何もなし。そこで目が覚めたもの。でも、すっごい怖かった」

「う~ん。ドラマがないなぁ、ダメよ、そんなんじゃ」

「あのねぇ……夢に文句言ってよ」


 美典が呆れたように言い、水希はころころと笑った。


「今日は、美典は?」

「普通に帰るわ。水希は?」

「私も。家帰って勉強~。あぁ……灰色の受験生活……」

「まったく……でも大丈夫? なんか疲れてない? 受験以外で心配事があるんじゃ……」


 その言葉に、水希は一瞬目を見開いて、それから「そんなことないって。勉強疲れ」と言って笑う。

 それを合図にしたかのように、井上先生が入ってきた。


 進学校の割に、この学校の教師はどこかのんびりしたところがあるのか、生徒の勉強を煽るようなことは言わない。あるいはこの井上先生だけがそうなのかもしれないが、その彼女が、進路指導担当だというのだから、他の教師は推して知るべし、である。

 だが、この学校もあと三ヶ月ほどでお別れだ。そう思うと、美典は、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。





 ――まだ目覚めては――ならば――好都合――

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