ケルベロスに隙はない

泉小太郎

序・分からず屋

 戻りたくないわけではない。

 戻れないのだ。戻りたい気持ちはあるけれど。だから――。

「ごめん、戻れないよ」

 幼馴染であり、同時に一年下の後輩にあたる望月早苗もちづきさなえびて、俺は視線を落とした。

 市立三栖手里みすてり中学校の廊下である。まだ一時間目が終わったばかりだというのに、朝から高かった気温がさらに急上昇して、すでに校舎内は熱気に満ちている。

「そんな冷たいこと、言わないでくださいよ」

 望月が俺の片腕を軽く掴んだ。

「おい、よせ。転ぶだろ」

 蹌踉よろめいた体を立て直す。

「す、すみません」

 望月が慌てた様子で手を離した。

 蹌踉めいたのは、俺が貧弱だからではない。望月は小柄だ。普段の俺なら体当たりをされたところでどうってことはない。

 ただ、今日はわけが違う。左足を捻挫ねんざしているのだ。右半身を松葉杖で支えることでやっと一歩を踏み出せる。そんなありさまだ。だからほんの少しの衝撃でも体勢が崩れてしまう。

 足首に包帯を巻いているので上履うわばきが履けない。おまけに包帯は分厚く何重にも巻かれているからジャージのズボンのすそを膝辺りまで巻くしあげている。なまちろすねが丸見えだ。

 そういう事情だから学ランよりも動きやすいジャージで過ごすことが認められているのは嬉しいけど、この格好はなんだか、情けない。

 自業自得だから仕方がないけれど。

「とにかく、戻れないんだ」

 重ねてそう伝えた。

「なんで、ですか」

 望月が上目遣いに視線を送ってくる。

 今まで見たことのない表情だった。

 小柄ながら、真っ黒に日焼けして髪も短めにしている望月の姿は、セーラー服とスカートを着けていなければ誰の目にも男の子として映ることだろう。物怖ものおじせずに誰にでも真っ向から主張をするし、その主張が強すぎるあまり喧嘩に至ることも屡々しばしばだ。相手が男子だろうが教師だろうが関係ない。間違っていると思えばあくまで主張を曲げない。

 そんな気の強い望月が、まるですがるような目で俺を見てくる。

 顔を背けながら望月の疑問に答えた。

「望月も知ってるだろう。俺はもう、この学校のサッカー部に入ってるんだ。仲間からも顧問からも評価されてる。そっちで精一杯なんだ。だから三栖手里みすてりクレッシダに顔を出す時間が、もう、取れないんだよ。本当に悪いけど」

 三栖手里クレッシタとは、俺が小学生になる前から所属していた地元の少年サッカー倶楽部の名称だ。

 望月はまだ続けているらしい。

 もう一人、俺と同学年の林田という男がいるが、彼もまた、元はクレッシダのメンバーだった。俺と林田と望月の三人で組んだディフェンスは鉄壁だと、大会があるたびにたたえられていた。まるで地獄の門を守るケルベロスのようだ、と。

 しかし中学校にあがってから、林田が抜けた。サッカー部に引き抜かれのだ。

 そして俺も抜けた。抜けてサッカー部に入った。林田に負けたくなかったからだ。

 ただサッカーを続けるだけならクレッシダでも問題はない。ただクレッシダは、我武者羅がむしゃらに優勝を目指すようなチームではない。もちろん大会には出るし、優勝するために頑張りもするのだけど、チームの目的はあくまで、サッカーを通して感受性を育むことにある。勝っても負けてもみんな頑張った、よくやったと褒め合って称え合って絆を深めること、成功はもちろん失敗も人としての成長につなげること――クレッシダとはそういうことを目的としたチームだ。

 俺もはじめはそれが心地よかった。クレッシダのおかげで仲間ができた。サッカーの技術を習得できたのもクレッシダのおかげだ。

 でも――。

 それには物足りなさを感じていた。自分が打ち込んできたサッカーの技術が、どこまで通用するのか、どこまで伸ばせるのか限界まで試してみたい――そんな気持ちでいっぱいだった俺は、クレッシダよりも、優勝を目指して突っ走る三栖手里中学校サッカー部の気質の方が合うと思ったのだ。

 それらの事情を説明して、

「戻れないんだ」

 ごめん、と頭をさげた。望月は何も言わない。

 沈黙が続く。

 気まずい。その沈黙から逃げ出したくて、

 俺は望月の顔を見ないように頭を上げて、再び廊下を歩き始めた。

「ちょ、ちょっとちょっと待ってくださいよ」

 望月が俺を追ってついてくる。松葉杖をついていては逃げることもできない。望月は俺の隣を歩きながらさらに訴えてきた。

「何もクレッシダの練習に付き合ってくれって言ってるわけじゃないんです。クレッシダに入ったちびっ子にとって、今回三栖手里みすてり中学校のサッカー部のレギュラーに抜擢ばってきされた水沢先輩は英雄なんですよ。ほかの中学のサッカー部に比べて厳しいって有名ですから。だから時間があるときにちょっとだけ顔を出してほしいってお願いしてるだけです。それも駄目なんですか」

「駄目だ」

「なんでですか」

 仲間に囲まれる居心地の良さにおぼれてしまいそうになるから、とは言えなかった。かわりに口をついて出た言葉は、自分でも想像していないほど冷たいものだった。

「俺が英雄だなんて単なる建前で、籍を置いてほしいだけなんだろ。人数合わせのために」

 途端に、俺に合わせて歩いていた望月の足が止まった。

 俺は一歩余計に歩いてから望月を振り返る。

 望月は両手を口に当てて涙をためていた。

「ひどい。ひどいですよ水沢先輩」

「俺だって、ひとりの人間なんだ。自分の名前を道具みたいに扱われるのは嫌なんだよ」

「だから頼んでるんじゃないですか、無理強むりじいしないで。それなのに――」

 それなのに、と望月は声を震わせる。

「水沢先輩の分からず屋!」

 叫ぶや否や、望月は俺に背中を向けて駆け去ってしまった。呼び止める間もなかった。

「何なんだよ」

 ――どっちがわからず屋だよ。

 空いている左手で髪をかきむしった。汗でかぴかぴに固まった髪が、指に絡みつく。蝉の声がけたたましく鳴り響き始めた。

 不快だ。

 汗も望月も蝉も不快だ。何よりなぜか本心を伝えられなかった俺自身が不快だった。

「くそ」

 やり場のない鬱憤うっぷんを吐き出すと、ジャージについていた乾いた泥が、ぽろりと床に落ちた。

 片付ける気にもならない。

 再び廊下を歩き始めた。

 目指すは視聴覚室だ。そこにはと聞く。しかもだいぶ様子のおかしな一年生だという。俺の方がひとつ上級とはいえ、きちんと話せるのか不安だった。

 でも、今はその探偵とやらに頼るしかない。

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