才媛
脇七郎
短編小説「才媛」
一 ブリュッセル<シェラトンホテル> 一九八九年秋
ホテルの電話が鳴った。午前三時である。わたしは帰宅してシャワーを浴び、パジャマ姿に着替えたばかりだった。受話器をとると聞き慣れた女性の声がした。「今から行っていい?」心底驚いた。心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。同時にかすかなためらいが生じた。同じホテルに宿泊している若い女性がこの時間に男性の部屋に来るということの意味がわからないほどわたしは子供ではない。
彼女と始めて出会ったのは数年遡る。一九八〇年代後半のパリである。仕事でわたしがパリに出張した際に、ロンドンから応援に来ていたのが彼女だった。彼女が所属する会社はロンドンに本拠を持つコンサルタント会社で、派遣された彼女はそこのエースだった。初めて会ったときは驚いた。小さくて華奢な身体、長い黒髪。まだ幼さを残す顔立ちは美人というよりも可愛い少女という印象で、わたしはすぐに好感を持った。ただ、仕事ぶりは見かけからは信じられないほど敏腕で、舌鋒鋭く、出張先の老練な中年の管理職連中を恐ろしいほどの切れ味でバッサリ切り捨てる様は圧巻だった。その上、英語はもちろん、フランス語、ドイツ語も堪能で、パリの職場はあまり英語が通用しなかったためわれわれは苦労していたのだが、彼女はコミュニケーションに流暢なフランス語で、あっというまに職場のフランス人を掌握してしまった。その癖エリート然とした気取りがなく、屈託のない自然な接し方と少女のようにちょっとしたことで喜んだり怒ったり悲しんだりするものだからわたしはあっという間に好きになってしまった。
しかし、なぜか日本にいるわたしの直属の上司からの受けは悪かった。おそらく二人共優秀だったからだろう。面白いもので、優秀すぎる者同士はうまくいかないことが多い。わたしのように平凡な人間ならカリスマ性を備えた二人のどちらともうまく折り合いがつくのだが、カリスマ同士はお互いの主張や考えを通して一歩もひかないからぶつかりあうことが多くなる。そのため彼女は悲しそうにいつも言っていた。「わたし嫌われているね」そのことが原因で彼女のパリ滞在期間は数日間で終わってしまった。わたしのほのかな恋心もわずかの間に霧散した。後日、彼女はイギリス人と結婚していたことを知った。どのみちどうにもならないことだったと自分を納得させた。
再び会ったのがベルギーだった。パリの出会いから二年後だ。状況的にはパリと同じである。わたしは東京から彼女はロンドンから出張して任務を遂行する。違う点があるとすれば、彼女は相変わらず責任者として派遣されていたが、わたしのほうはパリでは一兵卒だったのがベルギーでは出世して責任者という立場だったことくらいだ。彼女は相変わらずで、子供っぽい可愛さと冷静沈着な強さが同居した不思議な魅力があった。わたしは彼女に再会できたことが心底嬉しかったし、今回は二ヶ月におよぶ長期にわたってともに仕事をする予定だったので毎日が楽しかった。ただ、彼女が人妻であることには変わりがなかった。夫のイギリス人との折り合いが悪いという噂は聞いていたが、噂を鵜呑みにして安易に動くわけにもいかない。
そんな二人がある日珍しく仕事で言い争った。わたしも経験を積んで自分の仕事に自信を持っていたので、お互いに一歩も譲らぬ言い合いになった。パリでの上司と彼女のようなものだ。そのときに彼女が顔を真っ赤にして叫んだ。「わたし嫌われているものね!」わたしは即座に言った。「嫌いなわけないだろ!むしろその逆だよ!」一瞬の沈黙。彼女がびっくりしたような目でわたしを見る。そばにいた彼女の同僚はニヤニヤしながら様子を見ている。わたしはバツが悪そうに無言のまま仕事を続けた。しばらく呆然としていた彼女も我に返って仕事を続ける。二人共しばらく無言のままだった。
数日して、仕事が一段落し、関係者全員で打ち上げパーティを行うことになった。ブリュッセルの繁華街では有名なバーで、ダンサブルな音楽がフロアを満たし、赤紫の薄暗い照明が回転するなか、肌を露出させた踊り子やホステスが手厚いサービスをしてくれる店だった。わたしたち出張組も現地の駐在組も高級なシャンパンやワインを浴びるほど飲んで踊り子のダンスやダーツなどの遊びを堪能したが、もともと乱痴気騒ぎがあまり好きではないわたしは深まる酩酊感とは逆に気持ちは次第に醒めていった。もう午前零時を過ぎている。明日はまた六時起きで仕事だ。この人たちはいつまで騒ぎ続けるつもりだろう。
彼女は照明が回転するフロアの中心で駐在員たちと楽しそうに踊っている。彼女にとってわたしたちは「お客様」だから調子をあわせているのか、本気で楽しんでいるのか、彼女のほんのり赤く染まった横顔をからはわからなかった。ただ、わたしはあの場所に混じるつもりはない。そういう騒ぎ方は苦手だ。先に帰ろう。
「すみません、ちょっと飲み過ぎたみたいでお先に失礼します」
わたしはご機嫌なベルギー駐在組のひとたちに申し訳なさそうに声をかけると店の出口に向かった。彼女を一瞥すると目が合った。笑顔を保ってはいるが寂しげな目に見えた。わたしは彼女に軽く手を振るとそのまま店を出た。
深夜のブリュッセルは真冬のように冷えきっていて、雲一つ無い夜空には満天の星と三日月がくっきり浮かんでいた。
ホテルの自分の部屋に戻り、シャワーを浴びてパジャマに着替えたところで電話がなった。受話器をとると彼女だった。「今から行っていい?」心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。同時にかすかなためらいが生じた。同じホテルに宿泊している若い女性がこの時間に男性の部屋に来るということの意味がわからないほどわたしは子供ではない。
二 東京<六本木> 一九八八年初夏
時期的にはパリとベルギーの間になるだろうか、梅雨が明けて暑さが本格的になってきたころ、普段はロンドンに住んでいる彼女が、東京の支店に二ヶ月ほど出張してきた時期があった。
昼休憩直前に職場の内線電話をとった部下が「係長、女性からです」と言った瞬間の直感は的中し、電話に出てみると彼女からだった。パリで初めて出会ったときの彼女の姿がくっきりと目に浮かんだ。
社交辞令の挨拶を済ませた後、彼女は言った。
「今週一杯東京にいるの。良かったら食事でもどう?」
「もちろん」二つ返事で答えた。心が躍った。
「良かったら、Kさんも一緒にどうぞ」
Kさんとは、わたしの同僚かつ友人で、彼女と直接一緒に仕事をしたことはないが、同じプロジェクトで会社と会社の関係上繋がりがあったため、呼ぶことにしたのだろう。わたしは、二人きりを期待していたので少々がっかりしたが、友人は労苦を共にしてきた戦友とも呼べる親しい仲なので気を遣う必要はない。友人に都合を聞いて、翌日の晩に六本木で食事をすることになった。
彼女に会えると考えるだけで胸が高鳴った。深夜勤務が続いて疲れ切っていた頭と身体が向精神薬を大量に打ち込んだように熱く活気に満ちあふれるのがわかった。パリでの彼女の飛ぶ鳥のように軽やかでそれでいて鋼のように強い動きに思いをはせた。小さな手で書類を迅速にさばく仕草、小柄な身体で職場を縦横無尽に動き回る速さ、理屈っぽいフランス人に悩まされる同僚を押しのけて流暢なフランス語で舌鋒鋭く論破する豪胆さ。すべてをはっきりと覚えていた。感動と畏敬を越えていつのまにか確かな愛情へと変わっていた。
わたしはこの女が好きなのだと。この才媛に惚れたのだと、はっきりそう自覚した。わたしは昔から頭の良い女性が好きだった。初恋の相手は成績トップのクラス委員長だったし、大学生の頃は帰国子女で英仏語の両方に堪能、かつ成績優秀で大学を首席で卒業するような女性だった。おまけに美女ときていて奥手のわたしには手を出す勇気すら出ない高嶺の花だったことをよく覚えている。
パリで出会った彼女も同様だ。美女とは言えないが、子供のような愛らしさが魅力的だった。その上、頭が切れて仕事もできる。わたしが惚れる典型のような女性だった。パリ出張が終わり、彼女との別れ際、社交辞令のような挨拶しかできなかったことをずっと悔やんでいたのだ。ただ彼女は既婚者だった。ただでさえ奥手で恋愛経験が浅い上に、厭世家のくせに倫理観だけは強かったわたしにはどうして良いかわからなかった。既婚者であってもわたしの気持ちの欠片を伝える術はなかったか。そればかりずっと考えていたが未だに答えを見出せないでいた。
とにかく明日、六本木で再会できる。会って話をすれば何かがつかめるかもしれない。
翌日の夜、六本木の待ち合わせの場所に現れた彼女は上司を連れていた。大いに落胆した。彼女がわたしを食事に誘ったのは、仕事上の関係、彼女が所属しているコンサルタント会社を当社が利用している事への感謝を示すものであり、個人的な意味はないのだと悟った。当然といえば当然か。そもそも彼女が一人で若い男二人を連れて三人で食事というのは不自然だろう。上司を連れてくるのは自然なことだ。
まあしかし、久しぶりに彼女に会うことができた。シンプルなホワイトシャツと紺色のスカートに褐色のジャケットという洋装で、相変わらずとても三十歳近い年齢とは思えない子供のような無邪気な雰囲気を纏っていた。ロンドン住まいならではの上質な皮のアタッシュケースを手にしていたが、まるで高校生の鞄のように雑な持ち歩き方が気取らない彼女らしかった。上司の男は、やたらと低姿勢の四十代の男性で上司と部下という肩書きとは裏腹の二人の力関係が透けて見えた。
わたしたちは、六本木の高級レストランで食事をした。他愛の無い話で時間が過ぎた。
彼女のラストネームは「Page」。ジミー・ペイジのPageだ。
「それよく言われるの」彼女は肉料理をつつきながら苦笑いした。隣の上司がわたしたちにやたらと気を遣って落ち着きがないのとは対照的に、彼女は終始リラックスしていて陽気だった。だが夫の話が出た途端、「イギリス人はめんどくさいのよ」そうぽつりと呟いた。そのときだけ彼女の顔が曇った。ジミー・ペイジの話など持ち出さなければ良かった。
ロンドンのアパートで暮らす夫婦の姿が頭に浮かんだ。金融街に近い一等地。風格と気品を匂わせる、狭いながらも歳を重ねて重厚さを増した高級な家具付きアパートの丸テーブルで夕食をとる二人。BBCのニュースがテレビで流れる中、何気ない会話をロンドン訛りの英語で交わすが会話は途切れがちだ。二人の距離は近いようで遠い。わたしは色々と想像してみた。これ以上、夫のことに触れるのは止めた方が良いだろう。
六本木での会食は、あっというまに終わった。やはり相手の上司や友人が一緒にいると話しづらい。自分の気持ちの欠片だけでも伝えようというわたしの決意は虚しく霧散した。
店を出て六本木の駅前で別れたとき、彼女はわたしに手を振った。アルコールが回って赤く染まった頬が一層赤みを増し、六本木の華やかな夜の光が小柄な身体を染め上げて童話の挿絵のようだった。いつかまた会えるだろうか。これが最後だろうか。臆病なわたしの心は揺れたが、同僚の言葉がわたしの夢想を遮った。
「俺なら彼女を落とすぜ」友人は彼女のことを気に入ったようだった。女性に人気のある男だったし、奥手のわたしと違って恋愛慣れしている彼は、わたしの気持ちを見透かしたように言った。
「人妻だぞ」
「そんなこと関係ないね。一夜限りのつきあいっていうのもあるだろ」彼はきっぱりと言い放つ。こいつはいい奴なのだが、女好きなのだ。わたしは苦笑いした。
「もう一軒行くか」わたしは飲み直したい気分だった。
「いいね」
わたしたちは再び六本木の繁華街に繰り出した。
こうして東京での彼女との再会は何事も無く終わった。
俺なら彼女を落とすぜ
その言葉だけがいつまでも耳にこびりついて離れなかった。
三 ブリュッセル<シェラトンホテル>一九八九年
ホテルの自分の部屋に戻り、シャワーを浴びてパジャマに着替えたところで電話がなった。受話器をとると彼女だった。「今から行っていい?」心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。同時にかすかなためらいが生じた。同じホテルに宿泊している若い女性がこの時間に男性の部屋に来るということの意味がわからないほどわたしは子供ではない。
「いいよ」そう答えるのに何時間かかっただろう。したたか酔って上手く回らない思考がさらに道に迷って迷路に入り込み、やっと絞り出した答えだった。実際には五秒ほどかもしれない。
電話を切ると、わたしは大急ぎでパジャマ姿からいつものルームウェア、白のポロシャツと灰色のカジュアルパンツに着替えた。ルームサービスで毎日のようにクリーニングしているから汚れや臭いを気にする必要はない。洗面所で顔をもう一度洗うと、ホテル備え付けのオーデコロンが目に入ったが、普段香水などつけないわたしが今更つけるのもわざとらしい。酔いを覚まそうと何度も顔を洗ったが相変わらず視界が揺れている。酒は強い方なのだがいささか飲み過ぎたようだ。
そうこうしているうちに、控えめなノックの音が聞こえた。
わたしは胸の鼓動に耐えつつ、静かにドアを開けた。滑り込むように彼女が部屋に入ってきた。「ごめんね、こんな時間に」彼女は紺色のブラウスと乳白色のジョガーパンツという軽装に着替えていた。側を通り過ぎるときに甘い香りがした。
彼女を窓際のソファの真ん中に案内した後、冷蔵庫を開けて聞いた。
「何か飲む?」
「水をお願い」
冷蔵庫から<エビアン>のペットボトルを二つ持ってソファに戻ると、透明なテーブルに置いた。彼女は窓の真向かいに座っていた。ここはシェラトンホテルの一〇階。天井から床まで一面ガラス張りの向こうにブリュッセルの街が一望できる。わたしは、コーナーソファの彼女の斜め右に腰を下ろした。
「ありがとう」彼女はペットボトルを開けて一口飲んだ。酔いが醒めたのか、少し頬を赤く染めてはいるもののいつもの花のような童顔に戻っている。
「どうしたの?こんな遅くに」わたしらしい野暮な台詞が口をついで出る。
彼女は驚いたようにわたしに視線を移した。黒い瞳が少し潤んでいる。
ああ、なんて無様な自分の一言だろう。午前三時に一人きりの男の部屋に来る理由を女性に聞くなんて。わたしは自分の不器用さ、いや臆病さに失望した。
彼女が腰を上げようとしたので、わたしは制し、彼女の右隣に座り直した。大きな窓の向こうにはブリュッセルの街。そして漆黒の夜がある。この地には新宿のようなビル群はないから、一〇階から見る夜は、果てしなく続く荒野のように暗く、控えめな月明かりと砂糖をまぶしたような光の粒子が点々とあるだけだ。磨き上げられたガラス窓を通して外気の冷たい空気感まで伝わってくる。
左太ももに暖かい感触を感じた。彼女の掌だった。わたしがゆっくりと肩に手を回すと彼女は身を寄せわたしの肩に頭を乗せた。左手から彼女の温もりと小鳥のような鼓動が伝わってくる。明るく華やかで機知に富んだ人生。同時に鍛錬と挫折と競争に疲れた人生。幼い頃の少女の姿が垣間見えた。
「この街はいいところね」
「ああ」
それきり二人は無言だった。微かに聞こえる吐息、寄せてきた身体の柔らかなしなり、甘く上品な香り、太ももから伝わる艶やかな刺激。わたしは性的誘惑に駆られた。
-俺なら彼女を落とすぜ
友人の言葉が脳裏をよぎった。ベッドに移ろうか。わたしは逡巡した。
だがその必要はなかった。彼女はわたしの肩に頭を乗せたままいつのまにか寝息をたてていた。疲れて寝てしまったのか、それともなかなか手を出さないわたしにあきれて狸寝入りをしているのか。
なぜだろう。彼女の寝顔を見ているうちにベッドに連れて行こうという野心がどこかへ消えてしまった。このまま肩を寄せ合って抱き合ったままで十分だった。わたしの腕の中にいてくれれば良い。それだけで幸せだった。
-情けない、男だろ
友人に言われそうだな。仕方ないだろ。おれはこれで満足なんだ。
ブリュッセルの夜は永遠に続く気がした。片手から伝わる優しい温もりに包まれながら砂漠のように果てのない夜を眺めているうちにいつしかわたしも眠りに落ちていった…
朝陽で目が覚めた。ソファに横たわっているのはわたしだけだった。時計は午前七時過ぎを指している。つい眠ってしまった。まるで先のことが夢だったように彼女の姿はどこにもない。テーブルに<エビアン>のペットボトルが二つある。彼女が残していったのはそれだけだった。
午前八時に出社すると、何事もなかったように彼女は笑いながら挨拶した。
「おはよう、今日もがんばろうね」
以降、帰国するまでの数日間、部屋の電話が鳴ることはなかった。
四 ロンドン<シティ>一九九一年
わたしは冬のロンドンにいた。金融街<シティ>の一角にあるオフィスに長期出張中だった。
彼女のコンサルタント会社との契約は切れ、顔を合わすことも、言葉も交わすこともなく二年近く経とうとしていた。そんなとき、突然オフィスに彼女から電話があった。
取り次いでもらった電話に出ると懐かしい声がした。
「久しぶりね。元気だった?」三十過ぎの相手に失礼かもしれないが以前より大人びて聞こえた。
「本当に久しぶりですね。そちらこそ元気みたいで何よりです。でもどうしてぼくがここにいるってわかったんですか?」
「わたしのアンテナは鋭いのよ。昇進したのも知ってるわ。すごいでしょ」
本当に不思議だった。彼女の会社との関係は切れている。同じ金融関係とはいえ何の繋がりもない仕事でロンドンに出張しているのにどうして分かったのだろう。ましてやわたしが昇進していることまで知っているとは恐れ入った。
聞けば彼女も昇進していて、ロンドンの支店長になっていた。以前会ったときの彼女の肩書きはマネージャーだったが、性別不問、能力主義の外資系会社とはいえ、この若さで支店長とはやはり凄腕である。
「良かったら食事でもどう?昇進のお祝いに」
かつて六本木で食事をしたときと同じ台詞だ。
「ありがとう。もちろんいいですよ。でも気を遣わないでくださいね」
「いえいえ、あなたにはお世話になってるから」
その日の夜にスカイガーデン近くのステーキハウスで食事をすることになった。仕事を早めに終えてコートを羽織り、急足で待ち合わせの店に向かった。店に入ると、彼女が手を振っているのが目に入った。東京のときとは違って一人だった。ピンクのタートルネックセーター姿で黒い髪を長く伸ばしていた。
わたしたちは二年ぶりの再会の握手を交わすと、向かい合わせに座った。
改めて見る彼女は、声の印象と同じく、少し大人びて見えた。以前は子供のようにふっくらしていた頬は白く端正になり、口紅の緋色が映えていた。幼さや脆さはもはや感じられず、一人の毅然とした女性がそこにいた。
二人は食事をしながらなごやかに語り合った。ただあの夜のことはどちらも触れることはなかった。何事もなかったようにお互いの仕事の話や一緒に仕事をしたときの話をした。
「ねえ、うちに来ない?」笑顔で突然彼女が言った。
「はあ?」驚いてフォークとナイフを持つ手が止まった。
「好待遇で歓迎するわよ、あなたなら」彼女は顔色一つ変えない。
少し想像してみた。確かにお互い似たような職種だ。今のわたしの会社の待遇は決して悪くないが、有名な外資系企業のそれとは比較にならないだろう。ただ能力主義だから成績が悪ければ簡単に切り捨てられる。到底わたしなど生き残れるとは思えない。
「いやいや、それは無理無理」わたしは困惑して言った。
「冗談よ」彼女は微笑むとワインを飲み干した。「もう一緒に仕事をする機会がないのかなって、ちょっと残念に思っただけ。ロンドンは嫌い?」
「いや好きですよ」
本音だった。この街は好きだ。ニューヨークのように忙し過ぎることも、パリのように華やか過ぎることもない。落ち着きがあり、少なくともわたしの知っている英国人はみな紳士的かつ親切だ。芸術性にあふれ、風格が漂う街並みも好きだし、何より大好きなロックが育まれた文化がある。外国に住むならロンドンだなと学生の頃から思っていたくらいだ。
「住みやすい街だけどね。わたしは微妙かな。最近は日本に帰りたいって思ったりする」
そう言って空のグラスを見つめる目が少し寂しげに見えたが、すぐに凛とした表情に戻った。
二時間ほど談笑した後、会計を済ませてわたしたちは店を後にした。小雨がぽつりぽつりと落ち始めていた。ロンドンの雨に傘は要らない。コートがあれば十分だ。
白いコートを纏った彼女は店の階段を降りたところでバッグから青いリボンで結んだ小さな箱を取り出して、わたしに差し出した。
「これお祝い」
「え!そんなのもらえないですよ」わたしは戸惑って一歩下がった。
「いいからもらいなさい!」彼女はそう言うと無理矢理箱をわたしに押しつけて、足早にタクシー乗り場の方へ向かった。
「あ、ありがとう!」わたしは逃げるように離れていく彼女を追いかけようとしたが間に合わず、その場に立ち尽くしたまま大声で言った。
「帰ってから開けてね!さようなら!」そう叫ぶと、彼女はタクシーに乗り込んで手を振った。タクシーがロンドンの冬の夜を走り去っていった。
さようなら、か…
小さな箱を片手にわたしは地下鉄の駅に向かって歩き出した。霧雨と冷えた空気が、あの日二人で見たブリュッセルの果てしない夜景を思い起こさせた。寂しさと懐かしさ、そして少しの後悔が胸の中を満たしていった。
それが一人の愛しい才媛と会った最後の日になった。
半年後、彼女は英国人と離婚して日本人と結婚したと聞いた。相手は六本木で一緒に食事をしたあの上司と知ったときは少し驚いた。友人Kが、だから言っただろ、とからかった。
ボタンを掛け違ったかな。わたしは苦笑した。
物思いにふけっていると「課長、素敵な腕時計ですね」と新入社員の女性が声をかけてきた。
「そう?ありがとう。もらい物なんだ」
「ふふふ、彼女ですかあ」いつの時代も女性は色恋に敏感だ。
「違うよ」
わたしは腕時計に目をやった。黒皮の<ポールスミス>の文字盤は午後一時を指していた。
「昼飯にいくか」わたしは友人Kを誘って席を立った。
(終)
才媛 脇七郎 @wackypiek
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます