第4章:誤解と摩擦

 文化祭が終わり、秋月高校の2年3組には、日常の穏やかな空気が戻ってきていた。しかし、佐藤陽太と久遠沙織の間には、以前とは少し違う雰囲気が漂っていた。二人の関係は、文化祭での共同作業を通じて微妙に変化し始めていたのだ。


 ある朝、いつものように教室に入ってきた陽太は、沙織の席が空いていることに気づいた。


「おはよう、陽太」親友の中村翔太が声をかけてきた。


「ああ、おはよう」陽太は少し気乗りしない様子で返事をする。


「どうしたんだよ? 元気ないじゃん」


「別に……」陽太は言葉を濁す。


 その時、教室のドアが開き、沙織が息を切らせて駆け込んできた。


「はぁ……はぁ……間に合った!」


 沙織は自分の席に向かいながら、陽太に気づいて軽く会釈した。


「おはよう、佐藤君」


「お、おはよう」陽太は少しぎこちない様子で返事をする。


 この様子を見ていた翔太が、からかうように陽太の肩を叩いた。


「おいおい、文化祭が終わったら急に距離ができちゃったのか?」


「そんなことないだろ」陽太は慌てて否定する。


 しかし、翔太の言葉には確かに一理あった。文化祭が終わってから、陽太と沙織の間には微妙な空気が流れていた。二人とも、お互いを意識するあまり、逆に自然に接することができなくなっていたのだ。


 授業中、陽太は時折沙織の方をチラチラと見ていた。彼女が真剣に授業に集中している横顔を見ると、なぜか胸がキュンとする。しかし、そのたびに「何を考えているんだ、俺は」と自分を戒めるのだった。


 一方、沙織も陽太のことが気になって仕方がなかった。彼が黒板の文字を必死に書き写す姿を見ると、文化祭での頼もしい姿を思い出し、頬が熱くなるのを感じる。しかし、すぐに「もう、何考えてるのよ、私」と頭を振るのだった。


 昼休み、陽太はいつものように教室で弁当を広げていた。そこに、沙織が恐る恐る近づいてきた。


「あの、佐藤君」


「な、なんだ?」陽太は少し驚いた様子で顔を上げる。


「その……文化祭の写真、できあがったんだけど。見る?」


 沙織は少し照れくさそうに、封筒を差し出した。


「ああ、ありがとう」


 陽太は封筒を受け取り、中から写真を取り出す。そこには、文化祭当日の賑わいの中で笑顔を見せる沙織の姿や、舞台で真剣な表情で演技する陽太の姿が写っていた。


「わぁ、みんないい表情だね」沙織が陽太の隣に座り、一緒に写真を見始める。


 二人の肩が触れ合い、お互いにドキッとする。しかし、すぐにその場の空気に慣れ、和やかに会話を交わし始めた。


「ほら、これ覚えてる? 佐藤君が衣装を着た時の写真」


「ああ、あの時は本当に恥ずかしかったな」


「えー、でも似合ってたよ?」


 そんな会話をしているうちに、二人の間の気まずさは少しずつ溶けていった。しかし、その様子を見ていたクラスメイトたちの間で、新たな噂が広まり始めていた。


「ねえねえ、佐藤と久遠って、もしかして……」

「付き合ってるんじゃない?」

「文化祭の時から様子が変だったもんね」


 そんなささやきが、教室内を駆け巡る。


 放課後、陽太は生徒会の仕事で職員室に向かっていた。その途中、廊下で沙織とすれ違う。


「お疲れ様」

「うん、お疲れ様」


 二人は軽く言葉を交わし、すれ違いざまに目が合う。その瞬間、周囲にいたクラスメイトたちから、くすくすと笑い声が聞こえてきた。


「やっぱりね~」

「二人とも顔真っ赤じゃん」


 陽太と沙織は慌てて視線をそらし、足早に立ち去った。


 翌日、教室に入ってきた陽太は、妙な雰囲気を感じ取った。クラスメイトたちが、自分を見ては小声で何かを話している。


「どうしたんだ?」陽太が翔太に聞く。


「いや~、お前のことでちょっとした噂が立ってるんだよ」


「噂?」


「ほら、沙織のことでさ」


 陽太は顔を赤らめながら慌てて否定する。


「ち、違うぞ! 俺たちはただの……」


 その時、沙織が教室に入ってきた。クラスメイトたちの視線が一斉に彼女に集中する。沙織は何か察したのか、少し困惑した表情を浮かべながら自分の席に向かった。


 授業中、陽太は落ち着かない様子で何度も沙織の方を見てしまう。沙織も同じように、時折陽太の方をチラチラと見ていた。そんな二人の様子に、クラスメイトたちの噂はますます大きくなっていった。


 放課後、陽太は生徒会室で仕事をしていた。ノックの音がして、ドアが開く。


「失礼します」


 そこには沙織の姿があった。


「久遠さん? どうしたんだ?」


「あの、ちょっと話があって……」


 沙織は少し緊張した様子で、陽太の前に立つ。


「みんなの噂、気になってない?」


 陽太は一瞬言葉につまったが、すぐに答えた。


「ああ、気にはなるけど……別に気にすることはないと思う」


「そう……そうだよね」


 沙織は少し安心したような、でも何か物足りないような表情を浮かべた。


「佐藤君、私たち……友達、だよね?」


 その言葉に、陽太は胸に小さな痛みを感じた。


「ああ、もちろんだ」


 二人は互いに微笑み合ったが、その笑顔の奥には、言葉にできない何かが隠されていた。


 その日の夕方、陽太は下校途中で沙織の親友である鈴木愛と出くわした。


「あ、佐藤君。ちょうどいいところで」


「どうしたんだ、鈴木さん」


「沙織のこと、どう思ってるの?」


 突然の質問に、陽太は驚いて言葉につまる。


「え? あ、いや、その……」


「ごめんね、急に聞いちゃって。でも、沙織のこと、大切に思ってるんでしょ?」


 陽太は赤面しながら答える。


「ああ、もちろんだ。大切な友達だからな」


 愛は少し物足りなさそうな表情を浮かべた。


「そう……友達ね」


 その言葉に、陽太は何か引っかかるものを感じたが、すぐには理解できなかった。


 翌日、学校に着いた陽太は、校門前で見慣れない光景を目にした。沙織が、見知らぬ男子生徒と楽しそうに話をしているのだ。


「あれは……」


 陽太は思わず立ち止まってしまう。その時、翔太が後ろから声をかけてきた。


「おい、陽太。何見てるんだ?」


「あ、いや……」


 翔太は陽太の視線の先を見て、にやりと笑った。


「へえ、沙織ちゃんに彼氏できたのかな?」


「え?」


 陽太は思わず声を上げてしまった。その声に気づいたのか、沙織が振り返る。彼女は陽太を見つけると、笑顔で手を振った。


「おはよう、佐藤君!」


 陽太は慌てて答える。


「お、おはよう」


 沙織は男子生徒と別れ、陽太たちの方へ歩いてきた。


「佐藤君、翔太君、おはよう」


「おはよう、沙織ちゃん。今の人、誰?」翔太が興味深そうに尋ねる。


「ああ、高田翔っていって、私の幼なじみなの。今日、用事があって寄ってくれたんだ」


 陽太は胸をなでおろす。しかし、同時に「なぜホッとしているんだ?」と自分に問いかけるのだった。


 その日の授業中、陽太は何度も沙織の方を見てしまう。彼女が楽しそうに男子生徒と話していた姿が、頭から離れなかった。


「俺は何を考えているんだ……」


 陽太は自分の気持ちに戸惑いを覚えていた。


 放課後、陽太は生徒会の仕事を終え、帰ろうとしていた。すると、廊下で沙織と鉢合わせした。


「あ、佐藤君。お疲れ様」


「ああ、お疲れ様」


 二人は少し気まずい雰囲気の中、並んで歩き始める。


「あの、さっきの……」陽太が切り出す。


「ん? 何?」


「いや、その……朝の男子生徒のことだけど」


 沙織は少し驚いた様子で陽太を見る。


「ああ、高田くんのこと? どうかした?」


「いや、別に。ただ、君と仲が良さそうだったから」


 沙織は少し困惑した表情を浮かべる。


「うん、幼なじみだからね。でも、どうして佐藤君がそんなこと気にするの?」


 陽太は慌てて答える。


「いや、別に気にしてるわけじゃなくて……」


 その言葉に、沙織は少し期待するような、でも悲しそうな表情を浮かべた。


「そっか……」


 二人の間に、再び気まずい沈黙が流れる。



 その夜、陽太は自室でベッドに横たわりながら、沙織のことを考えていた。


「なんで俺は、あんなに気にしてたんだろう……」


 自分の気持ちが分からず、陽太は混乱していた。


 翌日、学校に着いた陽太は、教室に入る前に沙織の声を聞いた。


「うん、また今度ね。楽しみにしてる!」


 陽太はその声に引き寄せられるように、教室のドアを開けた。すると、沙織が携帯電話で誰かと話をしている場面に出くわした。


「あ、佐藤君。おはよう」沙織が電話を切りながら挨拶をする。


「お、おはよう」陽太は少しぎこちない様子で答えた。


 沙織は陽太の様子に気づいたのか、少し心配そうに尋ねる。


「どうかした? 顔色悪いよ」


「いや、何でもない」陽太は素っ気なく答え、自分の席に向かった。


 その日の授業中、陽太は沙織の方をほとんど見ようとしなかった。沙織も、そんな陽太の様子に戸惑いを覚えていた。


 放課後、陽太は急いで教室を出ようとしていた。そこに沙織が声をかけてきた。


「佐藤君、ちょっといい?」


「悪いけど、今日は用事があるんだ」


 陽太は沙織の顔をまともに見ることができず、そそくさと立ち去ってしまった。


 翌日、学校に着いた陽太は、校門前で再び沙織と高田が話している場面に出くわした。二人は楽しそうに笑い合っている。陽太は胸に痛みを感じながら、二人の横を通り過ぎた。


 教室に入ると、クラスメイトたちが陽太の様子を心配そうに見ていた。


「大丈夫か? 顔色悪いぞ」翔太が声をかけてきた。


「別に……大丈夫だ」陽太は低い声で答えた。


 その日の午後、体育の授業があった。陽太は集中できず、いつもの動きができなかった。


「佐藤、どうした? 調子悪いのか?」体育教師が心配そうに声をかける。


「すみません、ちょっと……」


 陽太が言葉を濁していると、沙織が近づいてきた。


「先生、佐藤君を保健室に連れて行ってもいいですか?」


 教師は頷き、沙織は陽太の腕を取って保健室へ向かった。


 保健室で二人きりになると、沙織が真剣な表情で陽太に向き合った。


「佐藤君、最近様子がおかしいよ。何かあったの?」


 陽太は沙織の目をまっすぐ見ることができず、視線を逸らしながら答えた。


「別に……何もない」


「嘘だ」沙織の声が少し強くなる。「私のこと、避けてるでしょ」


 陽太は言葉につまる。沙織は続けた。


「高田くんのこと、気になってるの?」


 その言葉に、陽太は思わず顔を上げた。


「え?」


「だって、高田くんと話してる時の私を見る目が……何か違ったから」


 陽太は言葉を失う。沙織の洞察力の鋭さに、自分の気持ちを見透かされたような気がした。


「違う、そんなんじゃ……」


 しかし、言葉が続かない。沙織はため息をつきながら言った。


「佐藤君、私たち友達だよね? 何かあったら言ってほしい」


 その「友達」という言葉に、陽太は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「ああ、もちろんだ」陽太は精一杯の笑顔を作って答えた。


 しかし、その笑顔が作り物だということは、沙織にも分かっていた。


 その日の放課後、生徒会の仕事で、陽太と沙織は体育館の備品整理を任された。二人きりでの作業に、気まずい空気が漂う。


 黙々と作業を進める中、陽太は思わず口を開いた。


「あの、久遠さん」


「なに?」沙織が振り返る。


「その……例の男とは、付き合ってるのか?」


 沙織は驚いた表情を浮かべた。


「え? 何の話?」


「高田だよ」陽太の声には、自分でも気づかないほどの苛立ちが混じっていた。


 沙織は困惑した表情で首を傾げる。


「どうして急にそんなこと聞くの?」


 陽太は自分でも何を言っているのか分からなくなり、言葉を濁す。


「いや、ただ……」


 沙織の表情が曇る。


「佐藤君、それって私に関係ないでしょ」


 その言葉に、陽太は我に返った。


「ご、ごめん。余計なことを……」


 しかし、沙織の態度は急に冷たくなった。


「佐藤君こそ、鈴木さんとどうなの?」


「え?」陽太は予想外の質問に驚く。


「この前、二人で楽しそうに話してたの見たわ」


 陽太は困惑した。


「いや、あれは違う。鈴木さんは君のことを……」


 言いかけて、陽太は口をつぐんだ。沙織の表情がさらに曇る。


「私のこと? 何を話してたの?」


 陽太は答えられず、沙織も追及するのをやめた。二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。


 そのとき、陽太が誤って体育用具を倒してしまった。大きな音とともに、マットやボールが床に散らばる。


「あ、ごめん!」


 慌てて片付けようと身をかがめた瞬間、沙織も同じように身を乗り出し、二人の顔が異常に近づいた。


 お互いの息遣いを感じるほどの距離で、陽太と沙織は固まった。心臓の鼓動が早くなり、頬が熱くなるのを感じる。


 しかし、次の瞬間、二人は慌てて体を離した。


「ご、ごめん」陽太が謝る。


「い、いえ……」沙織も顔を真っ赤にして俯く。


 その後、二人は無言で作業を続けた。しかし、さっきまでの険悪な雰囲気は消え、代わりに言いようのない緊張感が漂っていた。


 作業を終え、帰り支度をする二人。陽太が恐る恐る口を開いた。


「あの、さっきは変なこと言ってごめん」


 沙織も小さな声で答えた。


「私も、ごめんね」


 二人は顔を見合わせ、ぎこちなく笑い合った。


 翌日、陽太は親友の翔太に相談することにした。


「おい、翔太。ちょっといいか?」


「どうした? 珍しいな、お前から相談なんて」


 陽太は言葉を選びながら話し始めた。


「その、仮の話なんだけどさ。もし、友達のことを……その、好きになりそうで、でも相手には彼氏がいるかもしれなくて……」


 翔太は眉を上げ、にやりと笑った。


「はいはい、"仮の話"ね。要するに、沙織ちゃんのことでしょ?」


 陽太は慌てて否定しようとしたが、翔太に遮られた。


「いいから。で、彼氏ってのは高田って奴? 幼なじみの」


「ああ」


「お前、嫉妬してるんじゃねーの?」


 陽太は顔を赤らめながら答えた。


「ち、違うよ。ただ、心配で……」


「はいはい。で、どうするつもりなの?」


 陽太は俯いて答えた。


「分からない。でも、久遠さんが幸せなら、それでいいんだ」


 翔太はため息をつきながら言った。


「お前な、もっと素直になれよ。自分の気持ちに」


 その言葉に、陽太は返す言葉を失った。


 一方、沙織も親友の愛に相談していた。


「ねえ、愛。ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」


「どうしたの? 珍しいね、沙織から相談なんて」


 沙織は少し躊躇しながら話し始めた。


「その、仮の話なんだけど。もし、友達のことを……その、好きになりそうで、でも相手には彼女がいるかもしれなくて……」


 愛は目を丸くした。


「まさか、佐藤君のこと?」


 沙織は慌てて否定しようとしたが、愛に遮られた。


「いいから。で、彼女ってのは鈴木さんのこと?」


「うん」


「もしかして、両想いかも?」


 沙織は顔を真っ赤にして答えた。


「そ、そんなわけないよ。ただ、気になって……」


「はいはい。で、どうするつもり?」


 沙織は俯いて答えた。


「分からない。でも、佐藤君が幸せなら、それでいいの」


 愛は呆れたように言った。


「もう、二人とも素直じゃないんだから」


 その言葉に、沙織は返す言葉を失った。


 その日の放課後、陽太は職員室に用事があり、そこで山田先生と高田が話しているのを耳にした。


「高田君、沙織ちゃんのお母さんによろしく伝えておいてね」


「はい、分かりました。義理の妹のことは僕が責任持って見守ります」


 その言葉に、陽太は驚いて立ち止まった。高田が沙織の義理の兄だったとは。陽太は自分の誤解に気づき、深く後悔した。


 一方、沙織も友人から陽太の誤解を聞かされ、複雑な心境になっていた。


「あいつ、私のこと心配してくれてたの?」


 そう思うと、少し嬉しくなる自分に戸惑いを覚えた。


 その夜、陽太と沙織はそれぞれ自室で悶々としていた。


「謝らなきゃ」陽太は思いつつも、照れくささで躊躇していた。


「誤解を解かなきゃ」沙織は考えながら、どう切り出せばいいか悩んでいた。


 二人とも、明日の学校での再会に、期待と不安を抱えたまま眠りについたのだった。


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