「君と僕の季節 ―桜色の約束―」
藍埜佑(あいのたすく)
第1章:衝突の始まり
春風が桜の花びらを舞わせる4月、秋月高校の2年3組の教室に、期待と不安が入り混じった空気が漂っていた。新学期の始業式を終え、クラス替えで新たな仲間たちと顔を合わせた生徒たちは、それぞれに思い思いの表情を浮かべている。
教室の後方、窓際の席に座る佐藤陽太は、真新しい教科書を几帳面に机の中に収めながら、静かに周囲の様子を窺っていた。薄い黒のフレームの眼鏡をかけた端正な顔立ちの彼は、生徒会副会長として知られる優等生だ。昨年から引き続き、今年も副会長を務めることになっており、その責任の重さを感じつつも、新しい1年への期待に胸を膨らませていた。
教室の前方で、担任の山田先生が咳払いをした。
「はい、みなさん。静かに」
ざわついていた教室内が、徐々に静まり返る。
「今日は、皆さんに新しいクラスメートを紹介します」
その言葉に、教室内に小さなどよめきが起こった。転校生というのは、どんな学校でも話題の的になるものだ。
「久遠沙織さん、入ってきてください」
教室の扉が開き、一人の少女が颯爽と入ってきた。長い黒髪を背中で揺らし、凛とした佇まいで教壇に立つ。しかし、その表情には柔らかな笑みが浮かんでおり、どこか親しみやすい雰囲気を醸し出していた。
「はじめまして。久遠沙織です。東京から引っ越してきました。演劇が大好きで、こちらでも演劇部に入りたいと思っています。よろしくお願いします!」
沙織の自己紹介は、明るく快活なものだった。クラスメートたちは、その自信に満ちた態度に惹きつけられたようで、歓迎の拍手が沸き起こる。
陽太は、沙織の堂々とした様子に少し驚いた。転校初日にもかかわらず、緊張した様子は全く見られない。むしろ、クラス全体を自分のペースに巻き込んでいるようだった。
「久遠さんは、演劇の経験が豊富なんだって。みんな、仲良くしてあげてください」山田先生が付け加えた。
沙織は教室を見渡し、空いている席を探す。そして、陽太の隣の席が空いていることに気づくと、躊躇することなくそこに向かって歩き出した。
「ここ、空いてる?」沙織が陽太に尋ねる。
「ああ」陽太は短く返事をした。
沙織は素早く荷物を置き、席に着く。そして、にっこりと笑って陽太に向き直った。
「よろしくね、隣の席の人」
陽太は、その予想外の親しげな態度に少し戸惑いを覚えつつも、礼儀正しく応じた。
「こちらこそ、よろしく」
授業が始まり、新学期特有の緊張感と期待感が教室内に満ちていく。しかし、陽太の心の中には、どこか違和感のようなものが残っていた。沙織の自由奔放な雰囲気が、規律を重んじる彼の価値観とは少しずれているように感じたのだ。
昼休み、教室は談笑する生徒たちの声で賑わっていた。多くの生徒が沙織の周りに集まり、東京での生活や演劇の話を熱心に聞いている。沙織は生き生きと話し、時折笑い声を上げながら、クラスメートたちを魅了していた。
一方、陽太は静かに自分の弁当を広げ、教科書を開いて予習を始めていた。そんな彼の元に、親友の中村翔太が近づいてきた。
「おい、陽太。新入りの子、なかなかだな」翔太が陽太の肩を軽く叩きながら言った。
「ああ、確かに人気者になりそうだ」陽太は顔を上げずに返事をする。
「お前、となりの席だろ? 羨ましいぜ」
「別に。僕は勉強に集中したいんだ」
翔太は、そんな陽太の反応に呆れたように首を振った。
「相変わらず堅いやつだな、お前は」
そう言って、翔太は沙織たちの輪に加わっていった。
午後の授業が終わり、ホームルームの時間になった。山田先生が前に立ち、クラスの係を決める時間だと告げた。
「では、学級委員を決めましょう。立候補する人はいますか?」
教室内が静まり返る中、陽太がゆっくりと手を挙げた。
「はい、佐藤君。さすがだね」山田先生が満足げに頷く。
しかし、その直後、意外な人物が手を挙げた。
「私も立候補します!」
沙織の声が教室に響き渡った。クラスメートたちの間から驚きの声が漏れる。
「え? 転校生なのに?」
「すごい積極的だな」
そんなささやきが教室内を駆け巡る。
陽太は眉をひそめた。転校生が学級委員に立候補するなんて、前代未聞だ。しかも、生徒会副会長の自分がいるのに。
「久遠さん、転校してきたばかりだけど大丈夫?」山田先生が心配そうに尋ねる。
「はい! 新しい環境だからこそ、頑張りたいんです。クラスのみんなと早く打ち解けたいし、学校のことも早く知りたいので」
沙織の返答は、自信に満ちていた。その態度に、クラスメートたちから小さな拍手が起こる。
陽太は、困惑の色を隠せずにいた。通常なら、生徒会役員がいる場合、その経験を買われて自然と学級委員になるのが慣例だった。しかし、沙織の予想外の行動により、状況が一変してしまった。
「じゃあ、投票で決めましょうか」山田先生が提案した。
投票の結果、陽太と沙織の得票数が全く同じになるという予想外の展開となった。クラスの中で意見が真っ二つに分かれたのだ。
「こういう場合は……」山田先生が考え込んでいると、沙織が明るい声で提案した。
「じゃあ、二人で協力して務めるのはどうでしょうか?」
クラスメートたちから賛同の声が上がる。しかし、陽太の表情は曇ったままだった。
「佐藤君、どう思う?」山田先生が尋ねた。
陽太は一瞬躊躇したが、クラスの空気を読み取り、渋々同意した。
「……分かりました。協力して務めさせていただきます」
こうして、陽太と沙織の共同学級委員が決まった。しかし、この決定が、二人の関係に予想外の展開をもたらすことになるとは、誰も予想していなかった。
放課後、学級委員としての初めての仕事のため、陽太と沙織は教室に残った。他の生徒たちが次々と下校していく中、二人は向かい合って座り、今後の活動計画について話し合うことになった。
陽太は、几帳面に準備した資料を広げながら、淡々と説明を始めた。
「まず、クラスの係分担を決めないといけない。それから、学校行事の準備、日直の割り振りなども……」
しかし、沙織は陽太の話を遮るように、明るい声で言った。
「ねえ、その前に、クラスのみんなの意見を聞いてみない? どんなクラスにしたいか、どんな行事をやりたいか、そういうの」
陽太は眉をひそめた。
「でも、まずは基本的な役割分担をしないと……」
「だって、みんなの意見を聞かないで決めちゃうのはもったいないでしょ? せっかく新しいクラスになったんだから、みんなでワイワイ決めた方が楽しいし」
沙織の提案に、陽太は戸惑いを隠せない。
「楽しさも大切だけど、効率も考えないと」
「効率ばっかり考えてたら、つまらないクラスになっちゃうよ」
二人の意見は、まるで噛み合わない。陽太の論理的で計画的なアプローチと、沙織の自由で柔軟な発想が、真っ向からぶつかり合う。
「君は、学級委員の仕事をあまり理解していないんじゃないかな」陽太が冷ややかに言った。
「あなたこそ、クラスメートの気持ちを考えてない」沙織も負けじと反論する。
二人の言い合いは、次第にエスカレートしていく。
「そんな無責任な提案では、きちんとした運営ができないよ」
「あなたみたいな融通の利かないロボットじゃ、楽しいクラスなんて作れない!」
「無責任な自由人には、任せられない」
言い合いが激しくなるにつれ、二人の声が徐々に大きくなっていった。そのとき、教室のドアが開き、山田先生が顔を覗かせた。
「おや、まだ残っていたのか。随分と熱心に話し合ってるようだね」
山田先生の声に、二人は我に返った。顔を見合わせた陽太と沙織は、お互いに相手の目を避けるように視線を逸らす。
「あの、先生」陽太が切り出した。「学級委員の仕事の進め方について、意見の相違があって……」
山田先生は、二人の様子を見て苦笑した。
「そうか。でも、意見が違うのは悪いことじゃないよ。むしろ、それぞれの良いところを生かせば、素晴らしいクラス運営ができるんじゃないかな」
陽太と沙織は、言葉につまったまま黙り込んでしまう。
「二人とも、良い所がある。佐藤君は計画性があって頼りになるし、久遠さんは柔軟な発想力がある。その両方を上手く組み合わせれば、きっと素晴らしい結果が出せるはずだ」
山田先生の言葉に、二人は複雑な表情を浮かべた。
「さあ、もう遅いから家に帰りなさい。明日、改めて話し合えばいい」
そう言って、山田先生は二人を教室から送り出した。
夕暮れの校庭を歩きながら、陽太と沙織は気まずい沈黙を保っていた。校門に着くと、二人は無言のまま別れの挨拶をし、それぞれの道を行く。
その夜、自室で1日を振り返る陽太。机に向かいながら、沙織との言い合いを思い出し、溜息をつく。
「なんであんな自分勝手なやつが……」
しかし、心の奥底では、沙織の情熱的な態度に、どこか引かれているような不思議な感覚があった。
一方、沙織も自分の部屋で、鏡に向かいながら独り言を呟いていた。
「もう、あの眼鏡男、超頭固いんだから」
そう言いながらも、陽太の真剣な眼差しを思い出し、少し照れくさそうな表情を浮かべる。
二人とも、明日からの学校生活に、期待と不安が入り混じった複雑な思いを抱えていた。この衝突が、やがて二人を大きく成長させる契機となることを、まだ誰も予想していなかった。
翌日、教室に入ってきた陽太は、すでに席についている沙織の姿を見て、少し驚いた。いつもなら、ぎりぎりに滑り込んでくるタイプだと思っていたからだ。
「おはよう」陽太が声をかける。
「あ、おはよう」沙織も少し気恥ずかしそうに返事をした。
二人とも、昨日の言い合いのことを思い出し、どう接していいか戸惑っているようだった。そんな気まずい雰囲気を察してか、翔太が陽太に声をかけた。
「おい、陽太。昨日の放課後、随分と盛り上がってたみたいだな」
陽太は困惑した表情を浮かべる。
「盛り上がってたわけじゃない。ただ、意見が合わなくて……」
そのとき、沙織ともう仲良くなった鈴木愛が教室に入ってきた。
「沙織ちゃん、おはよう! 昨日の話、聞いたよ。大丈夫だった?」
沙織は苦笑いしながら答える。
「うん、まあね。でも、あの眼鏡君、ちょっと頭が固すぎるのよね」
その言葉を聞いた陽太は、眉をひそめた。
「僕だって、クラスのためを思って言ってるんだ」
沙織も負けじと反論する。
「私だって同じよ。でも、もっと柔軟に考えないと、楽しいクラスにはならないわ」
二人の言い合いが再び始まりそうな雰囲気に、翔太と愛は困惑の表情を浮かべる。
「おいおい、朝からケンカかよ」翔太が言う。
「そうよ、もう少し歩み寄ったら?」愛も同意する。
しかし、陽太と沙織は互いに譲る気配を見せない。この様子を見かねた山田先生が、二人に近づいてきた。
「佐藤君、久遠さん。昨日の続きは、放課後にゆっくり話し合ってくださいね。お互いの良いところを認め合えば、きっといい結果が出るはずです」
山田先生の言葉に、二人は渋々頷いた。
授業が始まり、陽太は真剣に先生の話に耳を傾けている。一方、沙織は熱心にノートを取りながらも、時折窓の外を見やっては何かを考え込んでいるようだった。
昼休み、陽太はいつものように教室で弁当を広げながら、予習を始めようとしていた。そのとき、沙織が近づいてきた。
「ねえ、佐藤君。お昼は外で食べない? 天気もいいし」
陽太は驚いた様子で沙織を見上げる。
「いや、僕は……」
「もう、たまには気分転換も必要よ。ほら、行こう!」
沙織は陽太の腕を引っ張り、半ば強引に連れ出した。校庭の桜の木の下で、二人は並んで座り、弁当を広げる。
「ほら、外の方が気持ちいいでしょ?」沙織が笑顔で言う。
陽太は少し戸惑いながらも、頷いた。
「確かに……悪くないかもしれない」
二人は沈黙のまま、しばらく弁当を食べていた。やがて、沙織が口を開いた。
「ねえ、佐藤君。私、あなたのことを頭が固いって言ったけど、本当はすごいなって思ってるの」
陽太は驚いて沙織を見た。
「え?」
「だって、生徒会副会長なんでしょ? そんな大役、私には絶対無理」
陽太は少し照れくさそうに目を逸らす。
「いや、別に大したことじゃ……」
「でも、私も負けたくないの。だから、学級委員も頑張りたいんだ」
沙織の言葉に、陽太は複雑な表情を浮かべる。
「僕だって、君のことを認めてないわけじゃない。確かに、君の発想力は……すごいと思う」
二人は互いに視線を合わせ、少し照れくさそうに笑い合った。
その日の放課後、二人は再び教室に残って話し合いを始めた。今度は、お互いの意見を聞き合いながら、少しずつ歩み寄ろうとする姿勢が見られた。
「じゃあ、こうしてみようか」
陽太が提案する。
「基本的な係分担は僕の案で決めて、イベントの企画は君の自由な発想を生かすというのはどうだろう」
沙織は目を輝かせて頷いた。
「それいいね! 私、運動会の応援の振り付けとか、考えてみたいな」
二人は徐々に打ち解けていき、話し合いは予想以上にスムーズに進んだ。
しかし、まだ完全に意気投合したわけではない。時折、意見の食い違いで言い合いになることもあった。
「でも、予算のことも考えないと……」
陽太が心配そうに言う。
「もう、そんな細かいこと気にしてちゃダメよ。まずは大きな夢を描かないと!」
沙織が反論する。
そんな二人のやり取りを、教室の外から山田先生が見守っていた。
「あの二人、なかなか面白い組み合わせになりそうだ」
先生は小さく笑みを浮かべた。
この日を境に、陽太と沙織の関係は少しずつ変化していく。互いの長所を認め合いつつも、時に激しくぶつかり合う。そんな二人の姿に、クラスメイトたちは興味津々で見守っていた。
陽太と沙織の「衝突」は、まだ始まったばかり。これから二人が経験する様々な出来事が、互いを成長させ、そして予想もしない感情へと導いていくことになる。しかし、そのことに気づくには、まだ少し時間がかかりそうだった。
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