第31話 神殿への微妙な視線
「ヘリアンサス様……」
「……だ、大丈夫よ。あなたが濡れなくて良かったわ。ほら、行きましょうね」
不測の事態が起きたからといって、取り乱すのは悪手だ。
相手はそういう動揺を狙っているのかもしれないのだから。
心配そうなリリウムの手を引いて前を見ると、先導する迎えについて行く黒髪男の後ろ姿が目に入った。
『流石にあの長老のお相手は、聖女様お一人では荷が重いかと。
共闘致しましょう。
ああでも、私のことは信じずとも結構。私とて、貴女を完全に信じてはおりませんから』
今度の説得も大分、難航しそうである。
余計な要素まで加わって。一度息を止め、ため息を飲み込んだ。
それから本格的な出迎えの一行が来て、下にも置かぬ扱いでカエルムに迎えられた。
あの老人は一足早く先行して、追い払いに来たらしい。
元気なのかそうじゃないのか分からない。
初めて目にしたカエルムは、随分と発展している街だった。
領地が海に通じており、海外の品物は大抵そこから入ってくるとのことだ。
必然中央部であるカエルムにも、海外産の品々が出回りやすい。
道端で見かけるだけでも、随分と見慣れないものや用途の知れないものがあって不思議な気分だった。
そこを行き交う人々も、穏やかな顔つきが多い。
その空気を築き上げたであろう貴族があの老人というのが、少し意外であるが。
先程目にした、前のめりに倒れた姿を思い出す。
あれは間違っても殴るわけには行かない。
いや元々そんな真似する気はなかったが、人間逆上すると何をするか分からないというのは先日噛み締めたことである。
しかしこの場合は何がどうあっても理性を総動員せねばなるまい。
下手すれば人死が出る。
どうしたものか。そうしたことを考えながら、改めて街に目を向ける。
ヴェスパータの賑々しく活気溢れた空気とは、また少し違う。
無論活気はあるのだが、それ以上にゆったりと恵みが満ちた、穏やかで鷹揚な街。そういう印象だった。
(ただ…………)
雰囲気は、決して悪いわけではない。
ただ、何だろうか。
この違和感というか、胸騒ぎのような感触は。
穏やかな町人たちがこちらを見るその目に少し、穏やかならぬものがあるような。
だが、その違和感を突き詰める前に目的地に達してしまった。
城内に入ったヘリアンサスは、ドミニク伯と夫人揃っての出迎えを受けた。
「申し訳ございません聖女様。
父がご無礼を働いたそうで、何とお詫びを申せば良いか……」
「いいえ、どうかそう恐縮なさらないで下さい。
こちらこそ急な訪問で、長老様に不快を覚えさせてしまい……」
「滅相もない。あの方も、お年に似合わずお元気なのは良いのですが……
いつまでも私は子供扱いでして。聖女様は私のお客様ですのに」
ドミニク伯は人の良さそうな顔つきをした、壮年の男性だった。
大柄な夫に比べて夫人は小柄で若々しく、冷や汗を浮かべる夫を優しく宥める。
ドミニク伯爵家は中立派の家であり、件のアルビウス公の傘下というわけではない。
代々の親交こそあるが、手下のように好きに動かせるというわけでもないと黒髪男からは聞いた。
それが正しいのであれば、そこまで警戒する必要はないのかもしれないが、しかし油断するわけにはいかない。
「まあ貴方、お着きになったばかりの方にそう畳み掛けてもご迷惑ですわ。
お詫びは晩餐の席で改めて。
……アドラー様に聖女様、よくぞお越し下さいました。
領民を代表して、心より歓迎申し上げますわ。
お部屋にご案内させましょう」
「急な訪いにも関わらずの歓待、お礼を申します。お招きを有り難くお受け致します」
「おお、良かった。聖女様も是非……」
「伯爵、お心遣いは大変恐縮ですが、神殿の方へお世話になろうと思っているので……」
「……いいえ、それは、お止しになった方が良いと思いますわ」
やや口籠りながらそう言われて、警戒度がやや上がる。
これは、どういう意味なのだろう。
疑わしい貴族としてか、それともこの街特有の事情か。
「いいえ、お誘いは大変有り難いのですが、私は今日のところは神殿へ参ります。
まずは神殿の方々と、何より神にご挨拶を述べなければ」
「そう、ですか……」
「……分かりました。聖女様がそう仰るのでしたら」
強いて引き止められることはなかった。
そのまま黒髪男と二手に分かれる。
伯爵家夫妻の物言いたげな、微妙な視線で見送られてヘリアンサスは城を出たのだった。
馬車を出すという申し出を辞し、徒歩で神殿に向かう最中。
一人案内人兼護衛がついてきたし、黒髪男を信じるならそれとなく護衛もつけられているはずだ。
さて何が起こるかという心境だった。
しかしそんなヘリアンサスを迎えたのは、人々のこれまた微妙な視線だった。
歩くほどに警戒するような、探るような視線を感じる。
ひそひそと、囁き合う気配がここまで伝わってくる。
幾ばくかの好奇心も感じるが、全体的に好意的な感じはしない。
時折視線が合わさることもあるが、すぐに目を逸らされる。
そうしたことから、人々の神殿への感情の一端が伝わってきた。
何故このような扱いを受けるのか。
ヘリアンサスには多少の心当たりがあった。
挨拶をしておこうとカエルムの神殿施設を訪れた時、薄々感じていたその疑念は確信に変わった。
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