神殿嫌いの長老と聖女
第29話 壮絶な神殿嫌い
「帰れ帰れええええええええ!!!!」
裂帛の叫びとともに、勢いよく大量の水を叩き付けられる。
浴びせられた冷たさを感じるともに、一瞬軽い衝撃に息を詰まらせた。
頭から被ったために、全身が冷えて重くなった。
衣装に染み込んだ水がぽたぽたと落ちていく。
一度瞬きして、目を開けると、前方に小柄な老人が肩を怒らせて立っていた。
濡れ鼠となったヘリアンサスが見つめると、激しい目つきで睨み返される。
最近は暖かい日が続き、今日は寧ろやや暑いほどなので、それほど辛くはない。
だが、予想外に手荒な出迎えに流石に驚いた。
どうしてこうなったのか。ヘリアンサスは数日前のことを、染み染みと思い返した。
ノックス侯爵とその傘下を動かし、何とか国境を救えた、そこまでは良かった。
援軍によって、国境の危機はどうにか救われた。
包囲されていた味方も救うことができ、多少の余裕ができた。
暫くは聖女として、前線で兵を鼓舞してもらおうという流れだったのだが、そこに待ったをかけたのがアルビウス公爵であった。
「ノックス侯爵家の件が風化せぬ内に、新たな成果を上げるべきでございます。
それでこそ陛下のご威徳も強まろうというもの。
私事で恐縮ですが、予てより頭を悩ませていた問題がございまして……
聖女様には、新たにドミニク伯の説得に取り掛かって頂きとう存じます」
ドミニク伯爵家は五百年近くの歴史を持つ、由緒正しき中央貴族である。
発案者のアルビウス公爵家ともそれなりに親しい間柄であるらしい。
そのため国王派とも近しく、今回の戦にあってもある程度の物資援助はしてくれていたが、出兵となると途端に腰が重くなる。
それは既に隠遁している長老の強い意向によるものらしかった。
当主自身は国王にも協力的なので、家を抑えている長老さえ説得できれば得られる助力は格段に増す。
だが、当初これに国王は渋った。
ドミニク家を説き伏せるのは良い、だがそれにヘリアンサスを向かわせるというのには難色を示した。
却って逆効果ではないかと。それというのも――……
「一刻も早く去ね、詐欺師の小娘がっ!!
ここより先は我が家が国王陛下より賜った土地である!!
神殿の走狗に吸わせる空気も踏ませる土地も無いわあああ!!」
この老人は若かりし頃より、壮絶な神殿嫌いで通っているのだった。
アルビウス公爵の主張はこうだ。
かの老人は隠遁したと言えども、未だ一族と社交界に隠然たる影響力を持つ。
神殿嫌いの長老であるからこそ、陥落させられた時の影響もまた大きい。
国内外に聖女の、ひいては国王の威光を示すまたとない機会であると。
「私の方からも書簡を通じて説得致しましょう。
神託を受けたという聖女様には、余計な世話かも知れませんが……」
戦争に非協力的な貴族への説得は依然続いていた。
中立派の中央貴族たちには、ノックス侯爵家が動いたことで大分衝撃を与えられた。
当の侯爵や国王たちも、一層貴族たちへの協力要請と交渉に励んでいると聞く。
彼らに丸投げしたいのは山々だ。
ヘリアンサスは貴族の説得など、できればもうしたくはなかった。
しかし同時に、聖女で居続ける限りは綱渡りを覚悟しなければいけないとも思っていた。
のみならず、アルビウス公爵はドミニク伯の協力を得る必要性を、実に理路整然と説いて下さったのである。
あれこれと思い巡らせた末、ヘリアンサスは敢えて虎口に飛び込むことにした。
かくして腹を括ったヘリアンサスは、ドミニク家の所領たるこのカエルムにやって来たのだが――……
その時地面に金盥が勢いよく叩き付けられ、派手な音が鳴り響いた。
「神殿の者どもの口車にはうんざりだあああぁ!
ヘリアンサスとやら、貴様もな!
どうノックスの若造を言いくるめたか知らんが、誰もが言いなりになると思うなよ!!
何と言おうがワシは騙されん!!」
老人は興奮冷めやらぬ様子で怒鳴り散らしている。
今にも火を吹かんばかりの勢いで、寧ろこちらにこそ水が必要ではないだろうか。
神殿嫌いは知っていたが、伯爵家の長老ともあろうものがこうして直々に出てきたことに驚く。
後ろにかばったリリウムとともに、綿々と浴びせられる罵声を呆然と聞く。
そこに仏頂面をしていた黒髪男が進み出た。
「お久しぶりです、ドミニクの長老殿。
これはまた随分と手荒い歓迎で。
誉れ高き伯爵領でこのような憂き目を見るとは思いませんでした」
「はっ、アドラーの小僧よ。
憎まれ口は相変わらずのようだな。
陛下についておらずとも良いのか?」
「あの方は逐一面倒を見なければならぬ幼子ではありませんよ。
そちらこそ、見たところお連れの一人もないようで、お元気そうなのは結構ですが」
「何とでも言うが良い。
これ以上神殿に我が領と民を毒されることは看過できんのだ」
そんな感じの応酬をしあい、少し経った頃。
突如として、老人はきゅっと顔に血を上らせたかと思いきや、次の瞬間ぱたっと倒れてしまった。
一転して静かになった小道にひゅうと風が吹く。
「……ってちょっとーーーーーーーっっ!?」
まさか怒りすぎて脳の血管でも切れたのか。
何かあったら冗談ではない、聖女どころか殺人犯だ。
慌てて駆け寄り、助け起こした。
呼吸はしているが、どうすれば良いのか。
ヘリアンサスには医術の知識などはない。そこに声が響き渡った。
「ご隠居様ああああ!!」
向こうから転がるように駆けてくるのは幾人かの人影、先頭に立つのは白衣を着た壮年の男だ。
わっと周囲に群がり、てきぱきと老人を介抱していく。
内一人が慌てたように拭くものを持ってきて、ヘリアンサスに頭を下げた。
「ああ申し訳ございません!ご隠居様がご無礼を……!!」
「い、いえ……どうかお気になさらず。それよりもその方は、大事ないのですか?」
「は、はい。お年がお年なので油断はできませんが、こうしたことは良くあることでして……お客様にご心配をおかけしてしまい恐縮です」
そこで幾らかの余裕ができたのか、呼吸を整えた相手と目が合う。
黒髪男に謝り倒していた侍従姿の彼はヘリアンサスに、正確にはヘリアンサスの銀髪に目を留めたようだった。
「では、貴方様が……」
「はい」
濡れた姿のままだが、この際仕方がない。
今更ながら居並ぶ人々に、緩く膝を折って挨拶を述べる。
「聖女ヘリアンサスでございます。
この度は国王陛下の使者の任を受け、こちらへ参りました」
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