第一章

序章 ならば死ね

【プロローグ】


 リーシュナは、暗い廊下を蝋燭も持たずに歩いていた。窓から差し込む月明かりだけが、彼の規則正しい足取りを照らしている。

 自分の部屋の戸を開けると、寝台に一人分の膨らみがあった。


(……誰か俺のベッドで寝ている)


 妻のオリエッタが、珍しくリーシュナの部屋で寝ている。

 リーシュナは、多少の苛立ちを含ませて、コツコツと低い足音を鳴らして寝台へと近づいた。


(狸寝入りだな)


 大きな寝台で眠る愛しの婚約者は、恋人の逢瀬を待たずに静かに眠っていた。

 しかし彼女の思惑など、リーシュナにとっては履いて捨てるようなものだ。


(……少し脅かせば出ていくだろ)


 寝ているにしては体が強張っている。わざとらしい寝息がなんとも耳障りだ。

 ギシリ、と音を立てて寝台へと身を乗せた。そのまま女の上に跨り、これ見よがしに薄い部屋着に無造作に手を滑らせ────


「──胸がある。誰だお前」


 指に触れたふくよかな感触に、ばっと手を引くと女の顔を見下ろした。いつもの、境の分からない脂肪にまみれた女とは明らかに違う。鍛えられた適度な筋肉に、豊満な胸部。


 声に呼応するように開かれた瞳に、リーシュナは瞬間息を呑んだ。


 青藤色の瞳は不安に揺れ、紅梅色の長い髪は僅かな月の光を反射して輝いている。緩慢な瞬きをして引き離される長い睫毛が、その双眸に影を落とした。


(これほどまでに美しく、まるで人形のように──)

「偽の聖女でございます」


 凛と澄んだその声に、リーシュナははっと我に返った。

 

(人形のように生気がないと思ったが、口を開けば人間以外の何者でもない。天上のように美しいだけのただの女だ)


 女を睨むようにして、低い声で言いつける。


「出ていけ」

「わたくしの独断では動けません」

「ならば死ね」


 そう言うと、銃を女の頭に押し付けて発砲した。ドォンと一つ、静かな夜更けに鳴り響く。


 その一瞬の動きであったのに、女は瞬時に反応したようだった。気づけば銃はそらされ弾丸は壁に埋まり、銃を持つ手首はギリリと握りしめられている。


 更にリーシュナの首には女の指先が触れていた。その華奢な手首を掴んで止めなければ、こちらが殺されていたかもしれない。


(……誰だこの女は。たった今殺したと思ったのだが)


 女は銃を向けられたのは初めてなのか、破裂音に一瞬身を震わせていた。不安を気取られないようにするためか、鋭い視線を向けてくる。

 芯のある強い瞳の割に、触れる手首はドクドクと速く脈打っている。


「──お前」

「どうしました!?」

「……」


 銃の破裂音に、侍従の愚図が部屋に飛び込んできた。見知らぬ女を主の不在中に無断で入れ、あろうことかその報告も怠るとは、愚図の中の愚図だ。


(慌てて来るくらいなら、そもそも入れるな)


 睨めば、予想外の一言が返ってきた。


「……ごゆっくり〜……」

「…………」


 女に跨って銃を発砲するリーシュナと、男に組み敷かれて首を絞めようとする女。

 何を勘違いしたのか、侍従の愚図がいそいそと戸を閉めている。


 リーシュナは再び女に視線を戻すと、探るように尋ねた。


「今俺を殺すならどうする」


 すると、女は少しの逡巡のあと両手を下げ、にっこりと美しい笑みを浮かべてこう言った。


「私が貴方を殺せるわけが、ないではないですか」


 僅かな月光に照らされた、ゾクリと背の凍るような微笑み。


(──言葉とは裏腹に、その気になれば殺せるとでも言われているようだ)

「……どういう意味だ」

「ふふ。でも、扉の外で聞き耳を立てている騎士さんに向けて叫べば、社会的には殺せるかもしれません」

「……」

「そうされる前に私を殺しますか? 死にたくないので抵抗はします。もし殺すなら、その奇っ怪な武器で、きっちり私の頭を飛ばしてくださいね」


 微笑みながら、細い人差し指でトントンと自分のこめかみを叩いている。

 しかし強気な発言に反して、その細く小さな身体から、細かな振動が伝わってきた。


(怖いくせに、噛みついてくる。……鬱陶しい。己の身一つ、自分で守れぬと言うのに)


 現状を打開しようと刹那の希望に縋る、リーシュナの最も嫌う人種だ。


「不愉快だ。明日までに出ていけ」


 ぞんざいにそう言い捨て、寝台から降りると振り返ることなく扉に手をかける。


 しかし部屋を出る寸前、背後から元気な声が飛んできた。


「リーシュナ・シュローレン公爵閣下! わたくしフェリシアヴィリデアッシュベリーと申します! 今日も遅くまでお疲れ様でございます、ゆっくりお休みください!!」


 早口過ぎてあまり聞き取れなかった。


(──アッシュベリーと言ったか? ……何にせよ、今晩のうちに出ていくことだろう)


 リーシュナは何を返すでもなく部屋を出た。

 女の言ったように扉の前でしゃがむ侍従と目を合わせ、もう一度ため息をつく。


 たった今殺されかけた相手の労を労うなど──また随分、頭のおかしな女を差し向けられたものだ。

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