第36話 ひとたび




咲茉えま昨日さくじつの吾輩との一夜はそれほど苦痛であったか?」


 岩の家の台所にて。

 昼食を終えて、遊びに出かけた詩と昴を見送った咲茉が、ぜんが洗った皿を受け取って布巾で拭いていた時だった。


「いや。苦痛ではなかった」

「では何故吾輩と視線を合わせてくれないのか?」

「………」

「まだそなたはそなた自身が危険だと考えているのか?危険ゆえ、吾輩を遠ざけているのか?」

「その考えが覆る事はない。だが。今回の事とは関係ない」

「では、教えてはくれないか?」


 善は蛇口レバーをひねって水を止めると、水で塗れた手をタオルで拭いて、咲茉へと身体を向けた。

 咲茉は拭き終わった布巾を水で洗い壁から突き出している木の棒にかけて、善に背中を向け、食器類を扉のない食器棚へと収めた。


「咲茉」


 善は背中を向けたままの咲茉へと声をかけた。

 咲茉は善に背中を向けたまま、やおら口を開いた。


「………マスターは何でもわかっている。私が何故視線を合わせないのかも、わかっているはず。わざわざ私から説明する必要はないと判断したが、いかがか?」

「確かに。吾輩にわからぬ事などない。いや。なかった。と、言うべきだな。咲茉の事は時折、わからなくなる。今回のように。そして、わからぬ事は知りたい。いかがか?」

「………知ったところで。マスターには。いや。わかった」


 咲茉は振り向いては見上げて善へと視線を合わせた。


「昨晩。マスターが初めて、竜の手で、私の顔に触れた。その時。恐らく、手の質感を変化させていたと思うのだが、あまりにも、やわらかかったので、意外で。何故か。落ち着かない。マスターの視線から、逃れたくなった。私にも理由は不明だ。これでいいか?私は昼の訓練に行く」

「駄目だ」

「何故だ?」

「昼のメンテナンスがまだであっただろう?」

「………」


 咲茉は無言でメンテナンス部屋へと歩き出した。

 ひとたび噴き出した善はやおら咲茉の後を追いかけて、メンテナンス部屋へと向かったのであった。











(2024.8.29)



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