線香花火が落つるまで。

水瀬 凪

第1話

---ねぇねぇ、花火しない?二人で!


---えー。断られるなんて思ってもみなかったなぁ。じゃあ、一人寂しく花火しますからいいよーだ!


---やった!そう言ってくれると思った!ありがとう!じゃあ日曜日、○○川待ち合わせだよ!忘れないでね。


そう言って無邪気に笑う貴女はもう居ない。花を転がすような笑顔ももう見ることは出来ない。目を離した隙にふっと消えてしまった。蜃気楼のように、一瞬で消えてしまった。残っていたのは貴女であっただろう肉の塊と、たくさんのあか。


水曜日。いつも通りに話して、いつも通りに一緒に帰って、いつも通りにお別れをして、いつも通りに手を振って、いつも通りに家路を急ぐ。いつも通りに歩みを進める。家に着いたら何をしようかと考えながら、淡々と前へ進んでいく。ふと貴女の姿が見たくなって後ろを振り返りかける。ドンっと、閑静な住宅街に似つかわしくない音が聞こえる。勢いよく振り返る。そこには夥しいほどの肉の破片と、赤色の液体が広がっていた。遠くから見ても分かるくらいに激しい損傷だった。貴女に突っ込んできたであろう車は大破している。


足を回した。千切れるくらいに回した。いっそ千切れてほしかった。貴女が助かるのなら、私の足など要らなかった。息が上がる。心拍数もはね上がる。心臓が口から飛び出しそうだ。肺が悲鳴を上げる。酸素を必死に取り込もうとする。それでも必死に足を回す。ひたすらに回す。足を止める。足元を見る。そこには貴女の靴があった。それだけで事実を受け止めるには、十分過ぎた。


私の叫びがあたりを木霊する。ローファーを手に取り、ぎゅっと胸に抱え込む。まだ少し温かかった。貴女が先ほどまで確実に存在していた、という事実が重く心にのしかかる。まだ一緒に居たかった。縋りたかった。あの太陽のような明るさにまだ縋っていたかった。まだやりたいことだってたくさんあったのに。日曜日、花火をしようと約束したばかりなのに、貴女が先に破ってしまうのだね。視界が海の中にいるみたいにぼやけてくる。熱いものが目にたまっていく。雫が頬を伝う。拭っても拭っても、止め止めもなく流れ続ける。もう駄目だった。蛇口が壊れたみたいに、大粒の涙をこぼし続ける。遠くでサイレンの音が鳴る。まだ、まだ、もう少しだけ、現実から目を背けさせて欲しかった。


金曜日。貴女のお通夜に来た。貴女とお揃いの制服もお揃いのローファーもこんな時に着たくなかった。もっと、もっと、別の場所で着たかった。文化祭とか、修学旅行とか、卒業式とか。どうしようもない感情が頭をぐるぐると巡る。誰かにぶつけたいのに、その相手はもう居ない。私の胸の中で飽和させるしかないのだ。たくさんの人が貴女に会いに来てる。貴女を想って涙を流している。それをただ呆然と眺めているだけの私。涙はもう出なかった。枯れてしまったのか。あるいは、あの夜に置いてきてしまったのか。


いや、私がただ薄情な人間なのだろう。友人とのお別れの日でさえ、涙を流すことも出来ない。欠陥品だ。貴女を想うことすらも、私には憚れる。こんな、道徳心が欠けたニンゲンモドキが陽だまりのような貴女を想ってはいけないのだ。ニンゲンモドキがニンゲン様よりも生きてていいのだろうか、いや良くない。あそこに居たのが私であったら良かったのに。死んでいたのが私であったら、良かったのに。


---○○ちゃん?


彼女の母が声をかける。深海のように底が見えないほど暗く、ゆらめく思考がぶつっと遮断される。定型文のような挨拶を交わす。もう笑いたくなんかないのに、笑みを浮かべなければならないと、優等生の私が言う。彼女の母がぎこちなく作った微笑みに彼女の面影を感じる。そんなふうに笑う姿を見たことはないけれど、やっぱり母似なのだなと関係のない考えばかり、頭に浮かぶ。一種の現実逃避であった。


---最期に一緒にいてくれてありがとうね。あの子、貴方のこと大好きだったから、いつもニコニコしながら貴方のお話してたのよ。こんな辛いところ見せてしまってごめんなさい。今は綺麗になってるから、顔見せてあげてね。


言葉が詰まる。明日も、来ますと告げ、頭を下げる。彼女の母の目尻には涙が溜まっていた。何としても零すまいという意思があるかのようだった。決壊するまいと、頑なな堤防であった。強く、気丈な母であった。こんなにも想われている、愛されている人が逝ってしまったのか。


写真と共に貴女の歩いた道を振り返る。小さい頃は泣き虫であったらしい。沢山のシチュエーションでの沢山の泣き顔。今では泣くところなんて、全く想像が出来ない。貴女が落ち込んでいるところなんて、見たこともなかった。いや、マイナスな発言をしているところも見たことも聞いたこともない。太陽、という言葉しか当てはまらない、そんな人であった。ケラケラと笑う姿、はにかむように笑う姿、何かを真剣に見つめる姿、1つのことにひたむきな姿。私の眼前に広がる貴女はそんな姿ばかりだ。彼女は中学生になった。少し大人ぶった顔してこちらを見つめている。ああ、かわいい。口角が少し上がる。これは卒業式の写真か。彼女の隣には私もいる。にぱっと花が咲くように笑う彼女。対照的に暗げに微笑む私。彼女の隣は私には相応しくない。そう思ってしまう。それなのに、彼女の隣は私の場所であると独占欲が顔を出す。高校生になった。勿論、彼女の隣は私だ。卒業式とは打って変わって、私はきちんと笑えている。ニンゲンになれている。それに安心したと同時に罪悪感が重くのしかかってくる。私が消えれば良かったのにね。貴女の足跡が消えぬうちに私も連れ去ってほしい。なんて、ただの高望みだ。


木魚の音。啜り泣く声。お経を唱える声。全てが遠くに聞こえる。水膜に覆われているようだ。ぼんやりと虚空を見つめる。時間は淡々と過ぎていく。合掌をする。立ち上がる。のそのそと歩く。礼をする。お焼香を上げる。また礼をする。先程よりも幾分か、ゆったりとしたペースで席に戻る。また虚空を見つめる。お坊さんのお経の声がだんだんとクリアに聞こえ始める。視界が明瞭になる。ぼんやりと薄がかっていた意識がはっきりし始める。現実に戻ってきたみたいだ。ちらほらと席を後にする人もいる。親族と話をする人もいる。私はなんて場違いなんだろう。彼女を想うこともせず、考えもせず、ただ座っていただけ。ただぼんやりとしていただけ。ああ、なんて薄情なニンゲンなんだ。嫌気がさす。胸に何かが詰まる。口元を抑える。急いで席を立つ。トイレに駆け込む。気持ち悪さに身を任せる。お昼に食べたものが全て無駄になってしまった。溜息を一つ吐く。もう一つ、大きく吐く。私の嫌なところが全部流れていきますように、とただただ願う。


土曜日。貴女のお葬式に来た。今日でいよいよお別れだ。貴女と作ったお揃いのお守りと私からの言葉を乗せて棺は火葬場へと向かう。貴女が好きな花なんて全く知らなかった。生前はヒマワリが好きであったと、そう話していた。貴女にピッタリの花だ。陽気に笑う、陽だまりが似合う貴女にピッタリだ。彼女の母が用意したであろう、たくさんのヒマワリ。貴女の周りに埋め尽くされる黄金の花。黄金を引き立てる白い百合の花。少し場違いな紫のスカビオサ。私の贈る花。場違いな私とお揃いだね、と自嘲気味に笑う。


ゆらゆらとバスに乗る。移りゆく景色をぼんやりと流し見る。全てがスローモーションのように流れ、消えていく。30分ほど経った頃だろうか。バスが止まる。のろのろとバスから降りる。空を仰ぎみる。ここで私は貴女の肉体とお別れをしなくちゃいけない。目線を下げる。ごくり。生唾を呑み込んだ。


式はつつがなく終了した。呆気なく彼女は火の海に入っていった。啜り泣く声は聞けども、取り乱す人は誰もいなかった。ニンゲンはそういうもの、なのか。私はこんなにも暴れ回りたいのに。叫びだしたい感情を必死に押さえつけている。彼女が居たという証を、存在を消してしまわないで、と叫び続けている。


1時間後。燃え盛る炎から出てきたのは、ちっぽけな骨。貴女を構成する毛も血も肉も全てが燃えて灰になって、残ったのはこんな小さな骨。両手で抱えきれる大きさの壺に収まるくらいの小ささ。はっ、と嘲るように笑う。生きた証なんて、こんなちっぽけな大きさで表せるもんか。貴女の存在はもっと、もっと大きかった。大きすぎた。骨だけ残されたって、貴女が居てくれなきゃ意味がないのに。歯を食いしばる。強く左手を握りしめる。爪が掌に刺さってもお構い無しに強く、強く握りしめる。溢れ出そうな感情をぐっと堪える。ぐっと抑える。震える右手で箸を受け取る。誰だか知らない人と骨を持つ。呼吸が乱れる。息がしにくい。マラソンをした後のように息が切れる。肺が酸素を求める。呼吸が速くなる。手の震えも酷くなる。骨壷に骨を納める。知らない人に箸を渡す。壁にもたれかかりながら、よたよたと歩く。その間にも呼吸はどんどん速くなっている。少し歩いたところでしゃがみこんでしまった。手の痺れが酷い。震えが止まらない。なのに、誰も助けてくれない。人は沢山居るはずなのに、みんな自分のことに精一杯で他人は眼中にないのだ。興味なんて無いのだ。そんなこと、分かってたはずなのにまた、期待をしてしまった。貴女しか助けてくれた人、救ってくれた人、居なかったのにね。貴女が居ないんだから、私なんかを助けてくれる人は居ないんだよ。ゆっくりと立ち上がる。お婆ちゃんのような足どりでトイレに向かう。鍵を閉める。ドサッと座り込む。床が汚いとか何も考えられなかった。とにかく早く休みたかった。息を吸うことよりも吐くことを優先する。勝手に多く吸ってしまわないように、コントロールをしてたくさんの息を吐く。何度か繰り返しているうちに落ち着いてきたようだった。時計を見る。10分ほど経っていたようだ。鏡に映った私は酷い顔をしていた。真っ白で生気のない顔。死んでいるみたいだ。


しれっと後ろの列に混じる。まだバス、出発していなくて良かった。少し安心する。数分経った頃、列が動き出す。もうこの場所を後にするようであった。人の波に従ってバスに乗り込む。先程とは違う通路側の席。下を向く。ただただ時間が過ぎ去るのを待っていた。


葬儀場に到着する。ここからは私なんかが同行していていいものでは無い。私はただの友人だ。ただでさえ、気を使ってもらって骨上げまでさせてもらったのだ。有難いことこの上ない。彼女の母に声を掛ける。


---全然気にしなくていいのよ。来てくれてありがとうね。あの子もきっと喜んでるわ。


感謝と別れを告げ、葬儀場を後にする。なんだか心にぽっかりと穴が空いたみたいだ。私は今日、失ってしまった。大事な、大切な何かを失ってしまった。空を見上げる。気持ちのいいくらいに晴れ晴れした空だ。鮮明な空だ。雨なんて降るはずがない。降る、はずがない、のに。頬を伝う雫がきらりと光った。

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