花と躯
天恵月
花と躯
懐かしい匂いに目を覚ました。古いタンスを開けたときにふっと香るような匂い。
しかしどこか居心地が悪い。なぜなのだろうと考えてみると、確かに吸い込んだはずなのに、肺が膨らむ感覚がしないのだった。
周囲の存在は感じるのに、自分の存在は感じない。
まるで空気にでもなったかのようだ。そう思ったとき、俺は俺自身が何者であるか知らないことに気が付いた。
「目覚めましたか」
そんな言葉が聞こえて、一気に俺の視界は開けた。深い霧が開けるように、花吹雪が顔にぶつかってさっと通り過ぎていくように、目の前に美しい景色が広がった。
眼前にいたのは、白く神々しい、立派な龍だった。
秋の木漏れ日のように、優しい瞳が俺に降り注いでいた。鱗は象牙のように艶やかで、たなびくたてがみは花弁のように生き生きとしている。
「ここは……」
俺は呆然と呟いた。震える喉、息を漏らす口はどこにもなかった。
「そうですね。言うなれば、あの世とこの世の狭間、でしょうか」
穏やかな返答に、俺はますます混乱する。
その狼狽が伝わったのか、白龍は痛ましそうに目を伏せて尋ねた。
「あなたは今や亡者となったのです。覚えておりますでしょうか」
俺は首を振ろうとして、頭が無いことに気づいた。頭どころか、腕も、足も、何もなかった。自分とは何者か、その確たる証拠さえ持っていなかった。
吹けば飛ぶような、魂だけの存在。それが今の俺なのだ。
「いいえ」
「ああ、やはり……」
龍はため息を吐いた。あの懐かしい匂いがふわりと立ち込めた。
「お名前はどうでしょう」
祈るような調子で問われた。俺はぼんやりとした記憶を必死にかき集め、自分の名前らしきものを探した。
「ええと、たしかM、だったような……」
かろうじて答えると、龍は嬉しそうに目を細めた。
「良かった。お名前は憶えておられるのですね」
俺はますます居心地悪く感じた。出来が悪いのに無理やり褒められているような、むしろ貶された方がせいせいするような気分だった。
「私は花龍。花の龍です」
龍はそう名乗った。言われてみればこの懐かしい匂いは、この龍から発せられている、花の香りであるような気がした。
「Mさん、お願いがあります」
龍は親し気に顔を近くする。鱗はひんやりとしていたが、吐息は太陽の日差しのように、じわりと暖かかった。
「私と一緒に現世へ降りて、躯龍を倒してください」
ちらりと牙が見えた。俺はそれを恐ろしく思いながら、小さな声で尋ね返す。
「ええと、躯龍とは……?」
「躯の、龍です」
それだけを言い、花龍は首をもたげた。
「さあ、行きましょう」
一瞬、長い胴体が見えた。
真珠のように美しい。
そう思った途端、すさまじい轟音が鳴り響き、俺の視界はまばゆい光に包まれた。
気づいたときには、罰を与えるかのように激しい豪雨の中にいた。雨の音に紛れて、また一つ、どこかで雷が鳴った。
降り立ったのは、どこかの街中のようだった。アスファルトは黒々と濡れて、埃と人の汗のにおいを立ち上らせている。
湿気に閉じ込められた夏の熱が、逃げ場を無くしてうろついていた。
「さあ、躯龍を探しましょう」
車道に浮かんだ花龍がそう言った。俺はとりあえず歩き出すような心地で、実体のない身体を前へ滑らした。
近くにコンビニがあった。その白い光を見ていると、なぜだか俺は胸をぎゅっと掴まれるように、苦しい気持ちになった。
「何か思い出せそうですか」
横を飛ぶ花龍が、俺をじっと見つめていた。豪雨の中でさえうっすらと輝きを放っている。
「いいえ」
そう答えてすぐに俺は尋ねた。
「俺は、思い出すべきなんでしょうか」
花龍は白い瞼をそっと上下させた。雨粒がその頬をつるりと滑っていった。
「躯龍を倒すのならば、避けては通れぬ道です。大丈夫。私が傍に居ます」
温もりのある励ましだった。生前の俺は、このように応援されたことがあっただろうか。
そんなことを考えて足を止めていると、不意に後ろから木枯らしのような突風が吹いた。
「Mさん! あれを……!」
花龍がぐるりと後ろを向いて叫んだ。振り返ると、居酒屋の暖簾をなぎ倒しながら飛ぶ、黒い龍の姿があった。
まるで車道を飲み込んでいく濁流のようだった。どぶのような匂いが、吹き付ける風に混じる。
俺は吐きそうになった。胃液も何もないはずなのに、えづきたい気分を抑えられなかった。
「あれが躯龍です。Mさん、私に乗ってください」
促されるままに、俺はよろよろと白い鱗の上に乗った。途端、快い香りが俺を包んだ。滑って落ちてしまわないか心配だったが、思いの外安らかな座り心地だった。
「追いますよ」
花龍はぐっと身体を伸ばし、飛んだ。今まで見ていた景色が、みるみるうちに後ろへ流れていく。
不揃いのマンションが次々視界の端を横切り、びゅんびゅんと音を立てて風が通り過ぎていった。
やがて躯龍が飛び込んだのは、ありふれた校舎だった。グラウンドの木々の葉を散らし、窓ガラスを震えさせながら壁を登った黒龍は、屋上のアンテナに巻き付いてこちらを睨んだ。
誰かを責めるような視線。それに貫かれた瞬間、俺の背筋を冷たい不快感が走った。
「Mさん、大丈夫ですか」
花龍が長い首をもたげて俺を見た。かぐわしい花の香りが雨の中に溶けていった。
「いえ。ただ……俺はこの場所を、知っているような気がして……」
この校舎があまりにありふれているからだろうか。俺は胸の裏側を誰かにひっかかれているような、そわそわとした落ち着かない気持ちになった。
まるで記憶が孵化しようとしているかのようだ。しかしその焦燥を、俺はどう言い表せばいいのか分からなかった。
俺が言葉を探しているうちに、躯龍はとぐろを解いて飛び立ってしまう。慌てて俺は花龍を急かした。
「とにかく追いましょう。あの龍を追えば俺の記憶も戻るような、そんな気がするんです」
花龍は頷き、身体を浮かして滑らかに飛んだ。
校舎の壁をぐんと登っていき、屋上から勢いよく降下する。なんとなく、昔遊園地でジェットコースターに乗ったのを思い出した。
あのとき、隣に座っていたのは誰だっけ。
夏の熱に溶けてしまったかのように、その記憶はぐにゃぐにゃとして判然としなかった。
躯龍はまた住宅街に戻り、狭苦しい坂を上がっていった。
過ぎ去っていく風景は、取り返しのつかない過去を回想しているときのような、しくしくとした胸の痛みを俺に浴びせていく。
もうそこに俺はいないという、寂しい実感だけがあった。
さらに細いわき道に逸れると、黒い龍が少し先のマンションの途中の階をじっと眺めていた。
花龍が追い付いたのに気づいて躯龍はさっと飛び立つ。俺は彼が見つめていたものが気になり、少し空中に留まるよう花龍に頼んだ。
ベランダのついたよくあるマンションだった。ファミリー向けのようで、綺麗に飾られたところもあれば、物干し竿を置き去りにされたところもあった。
躯龍が眺めていた一室もまた、家族連れが住んでいるようだった。子供が好みそうなカーテンが窓の向こうに下がっていた。
あの龍はなぜここをじっと見つめていたのだろう。俺がそう思っていると、不意にカーテンが開かれ、誰かが顔を見せた。
満ち足りた中年。そんな印象の男だった。穏やかにキョトンとした顔でこちらを見ている。
俺たちは豪雨に打たれているというのに、こいつは部屋の中で長閑にしている。それがどうにも腹立たしく、胸がむかむかとするような気がした。
しかしどこか彼の顔に見覚えがあった。窓に当たった雨粒が、彼の顔をぐにゃぐにゃと映した。
そうだ。俺の記憶の中の顔だ。ジェットコースターで隣に乗っていたあいつだ。
雷が鳴った。一瞬目を見開いた男は、振り返りながらカーテンを閉めた。
「行きましょう、Mさん」
花龍がそう急かしたが、俺は返事をする気すら起きなかった。
そうだ。あいつはずっと俺の友人でいてくれた。
大人になり、暮らしぶりにどうしても埋まらない差が生じた後も、俺のことをずっと気にかけてくれていた……。
花龍が身体をゆすった。懐かしい芳香が香る。
「Mさん」
穏やかに彼は言う。
「思い出したんですね。それならばなおのこと、先を急ぎましょう」
そして返事を待たず、花龍は空高く上った。
黒いうねりのような龍はすぐに見つかった。住宅街の一画を迷いでもしたかのように、ただぐるぐると回っていた。
花龍が後に続くと、躯龍は一気に風を切って、その中央にあるアパートの窓へ飛び込んでいった。
古ぼけて薄汚れた場所だった。
中には一面のごみが広がっていた。電気は付いていない。四畳半の狭い部屋だ。どぶのような匂いが、雨に閉じ込められて膿のようにたまっている。
壁には、埃をかぶったギターがずらりと並んでいた。
見慣れた景色だった。
その隅の、ぐちゃぐちゃになったシーツの上に、躯龍は横たわっていた。
「そうか」
俺は白龍から降りて、だらりと尾を投げ出した黒龍に近付いた。
雨に濡れてぬめる表皮、ぼさついたたてがみ、そして生気のない表情。
それらは今や、俺にとって不快なものではなくなっていた。
「お前は、俺か」
躯龍は濁った眼で俺を見上げ、頷きの代わりに一つ瞬いた。
泣きそうになった。
俺はこんなにもくたびれていたのか。死んでも死にきれず、現世で暴れるほどに、恨みを募らせていたのか。
全て思い出した。ここは俺の部屋だ。
俺はここで死んだのだ。
たった一人、誰にも看取られず、熱い夏の夜に耐えかねて死んだのだ。
死んで当然の生活。死んで当然の人間だった。
俺は普通の学生だった。普通に高校を卒業し、普通に大学へ進学し、そして普通に嫌気がさして、普通の道を踏み外した。
夢を追いかけたいと言って大学を辞めた。親はしばらく金を送ってくれていたが、やがてそれも無くなった。
コンビニでのバイトをずるずると続け、ミュージシャンという夢をだらだらと見続けた。やがて年を取り、同世代の人間が出世をしたり、家庭を築いたりするようになっても、俺は変わらなかった。
変われなかった。
いつのまにか、孤独に首を絞められる毎日になった。中年の、ガタが来た身体を引きずって、この狭い部屋に逃げ込む日々だった。
「そうだ。その孤独が龍となったのだ」
躯龍はくたびれた声で言った。
「俺はお前の
いや、それはもはや龍ではなく、俺だった。寝そべっているのは、死んだ俺自身だった。
最後の夜。エアコンすら点けられない部屋の中、夏の熱気と不安が渦巻くのを感じながら、俺はただ気を失うのを待っていた。
喉が渇いて立ち上がり、台所で水道の水を汲んだ。汚れたままの流しは異臭を漂わせ、水の味を吐き出したいほどまずくした。蠅だけが元気に舞っていた。
それで俺は量を飲めず、結局一口含んだだけで、また布団に戻った。
そして二度と目覚めなかったのだ。
俺は死体の髪を撫でようとした。実体のない俺は、自分に手を伸ばすことすらできなかった。
もう少し、愛してやればよかった。
後悔しても、涙すら出てこなかった。
「これを倒すって、一体……」
俺が振り向くと、布団の傍の花龍は目配せをし、何も言わぬまま扉の方を鼻先で示した。
触れるだけで億劫にさせる扉だ。外の窮屈な空気が、クズ人間を世間に晒すまいと押し込んでくるせいで、俺は毎朝この扉と格闘せねばならなかったのだ。
俺は扉の前まで進んだ。身体を失った今となっては開けることすらできない。
どうすればいいのかと花龍に尋ねようとした瞬間、俺の目の前でそれは呆気なく動いた。
「M!」
扉を開けたのは、たった一人の友人だった。すっかりずぶ濡れになって、薄くなりつつある髪が額に張り付いている。ずいぶん息を切らしていた。いつもの朗らかな表情は、見る影もなかった。
俺は彼の名前を思い出した。かつての自分が彼をどう呼んでいたか、いや、どれほどの親しみと、羨みを込めてその名を呼んでいたかを、思い出した。
「H」
まさか、あのマンションから走ってきたのか。家族の幸せが詰まった部屋から、雨が降りしきる外を走って、こんなところまで。
「なんでここに……」
喉が震えた。俺はいつの間にか、自分の足で立っていた。
「会える予感がした。今を逃せば、二度と会えないって予感も」
Hは悲し気に笑った。彼は俺を透かして、後ろのごみ溜めを見ているようだった。きっと寝台の上の死体も見えているのだろう。
連絡でもしてくれたのかもしれない。なにせ誰一人出歩いていないほどの、ひどい嵐なのだから。そしてその返事が無く、心配して来てくれたのかもしれない。
そんな人の良すぎるところが、このHにはあった。
思えば長い付き合いだった。Hと俺は小中高と同じクラスになり、なんとなく一緒にいるようになった。趣味も気も大して合わなかったが、共に過ごした時間が長いというだけで親しみを感じるような、そんな仲だった。
俺と違って友達の多い奴だった。簡単に心を開ける性質の人間だった。それ故に他人から信頼され、愛嬌故に失敗も許され、性根の優しさ故に誰かを引っ張っていける男だった。
案の定彼は順風満帆な人生を歩み、出世し、家庭を持って、充実した日々を過ごしているのだった。
何度も恨んだ。何度も羨んだ。俺が欲しい物ばかり揃えた奴だった。しかし俺を見捨てなかったのは、このHだけなのだった。
親に勘当されたまま、自分から交流を広げることもできず、ふらふらと生きていた俺を気にかけてくれる唯一の人物。夢の切れ端をずっと握りしめる俺を、手放さないでいてくれた人。
世間から見たら、友人ですらないかもしれない。ただ近所に住む、顔なじみというだけかもしれない。
それでも俺にとっては、ただ一人の親友なのだった。
ああ、今更それを思い返して何になるというのだろう。俺の人生はもうこれ以上、紡がれることはないのに。
「お前、死んじまったのか」
Hは寂し気に言った。俺は頷くばかりで、何も言えなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。もう二度と会えないとお互いが了承している中、どのように別れを告げるべきか見当もつかなかった。
俺は他人の手を一方的に、身勝手に振りほどきすぎた。俺は無責任な奴だった。
大学まで行かせてもらったのも、しばらく送金してもらっていたのも、普通ではなく恵まれたことなのだと、心の底では理解していた。
しかしそれに応える自信が無かった。度胸が無かった。夢という名目に逃げ込んで、逃げたことからも目を背けてしまった。
俺はたった一人、死んで当然の人間だ。
「おい、あれ」
Hが突然指さした。振り向くと枕元に、白い花の詰まった籠が置かれていた。花龍は、いつの間にか居なくなっていた。
近寄ると、籠の中の花はどうやら白菊のようだった。古いタンスを開けたときのような、懐かしい香りが漂っていた。
俺はそれを抱いた。籠はひんやりとしていたが、花は吐息をしているかのように、じわりと温もりを感じさせた。
「……そうか。俺にも、悼んでくれる人はいたのか」
悼んでくれる人がいる驚き。同時に、死を悲しんでもらえるということが、死んだ人間にとってどれほどありがたいことか、しんみりと理解した。
息を吸い込んだ。菊の香りが肺を膨らませた。
良い匂いだ。懐かしくて、爽快な、旅立ちの匂い。
この花籠は手向けの品だ。Hの俺を気にかける思いが、こうして咲き誇っているのだ。それが俺をここまで運んでくれたのだった。
俺はぐしゃぐしゃの笑みをHに向けた。久しぶりの笑顔だった。それでも最後に笑えれば、上出来だと思えた。
「ありがとう。お前に会えて、よかった」
やっと言えた。やっと素直になれた。ずっと強がりが勝って言えなかった。
Hという男が俺に与えてくれる約束があったから、俺は年を重ねるのを拒むことなく生きれたのだ。
彼は同窓会の度に、顔を出さない俺を心配して連絡をくれた。個別に飯の誘いまでしてくれた。
それはHにとって大したことじゃないだろう。俺以外の人間も誘っているだろうし、俺よりも多く食事を共にした人間なんてごまんといるだろう。
俺はそれが悔しくて、自分が情けなくて、嫌で嫌で仕方がなかった。孤独に耐えかねて誘いに乗ることもあれば、遠回しに拒んだり、あたかも他に友人がいるかのように振舞ったりもした。
しかし今や、そんなつまらない嫉妬は感じなかった。死を迎えた後になってようやく、俺はその事実を受け入れられた。
感謝を伝えずに逝く未練よりも、深い恨みなどあるだろうか。
窓の向こうで雨雲が晴れていく。真夏の光に、蝉がわっと鳴き出した。希望を感じさせる空だった。
顔に日差しが当たったHが、まぶしそうに目を細めた。
花籠が俺を連れて飛んだ。最後の雷に乗って、俺はついにこの世を離れた。
夏の空はどこまでも澄み渡り、花と躯は伸びやかに駆けていった。
それをHが、いつまでもいつまでも、見送ってくれていた。
花と躯 天恵月 @amaelune
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