その音が香る

@mitsukiamane

その音が香る

 揺蕩う海の音色は、静謐な光を纏うように穏やかで、神託の言を受けるように厳かだった。私はその海のふちに頼りなく座っては、ただ鮮やかな緋色を見ていた。

 不規則とも思える水の流れは月の引力をもって、ある意思をもって、ただそこに寄り添って、その姿かたちを変えるという。

 私はそんな海を愛していた。

 そして、その海べりに咲く花をも愛していた。


 心が焼けただれるほどに想っていた人がいた。もう四半世紀も昔の話だ。この海を愛した彼は、海を愛するように私を愛してくれもしていた。行商を生業とする人で、よく仕事という名の旅に出かけていた。

 「これも仕事だ」彼はそう言っては、旅さきの土産たる色とりどりの絵葉書を私にくれる。もちろん絵葉書ではなく、ある時はきれいな石をあるときは鮮やかな封蝋を私にくれた。

 彼は確かに旅に出かけたのだけれど、此処にいるときはたくさんの時間を私にくれた。朝の水汲みから昼の農仕事、夕涼みの逢瀬と夜の団欒。たくさんの愛をくれたし、私も同様に愛を渡した。そういう気持ちの交換が、私のなかではとくべつ大切なものだった。

 そう、大切だった。

 それは永遠ではなかったけれど。

 ある朝のことだった。

「この時期にだけ咲くきれいな花があるんだよ」

 眠気まなこの私にそう囁く彼がいた。私は朝から何を言っているのだろう、気だるい体を動かし、彼のいうままに支度をして彼のいうままについていった。

 私の大好きな美しい海だった。でも彼はそのなかのある茂みに入って、その先の小径を歩いていく。

 その先には。

 鮮やかな青と赤、このよの原色を溶かしたような宝石がそこにはあった。花だった。

 ウミナキソウというらしいこれは、朝日の溶ける海によく映えた。

「ここは誰にもいっていないんだ。きれいだから」

 彼はそう言って、いたずらっぽく微笑む。花と共に朝の芽生えを迎えた。私たちは潮と草木の香りを吸い込みながら共有した。

 それが最後だった。

 その夜に彼は失踪した。心が氷に飛び込むような衝撃に、私は三日みばん海と同じように潮の涙を流した。最初は心配してくれた周りの人も「旅に出たのかもね」と口にするようになり、荒れた心の波は荒れたまま私は心を喪うことになる。

 きっともしかしたら朝からいなかったのかもしれない。あれはきっと幻想で、もっとむかしから彼はいなかったのかもしれない。

 それでも。

 私は待ち続けている。

 小径の先の拓けた場所、海と色とりどりの花が見える場所。潮騒の音と花の香りが爆ぜる場所、あなたが好きだった場所。

 いつか会えるかもしれない。そういう無邪気な願いを抱きながら、私はただ前を見る。

『まだお前はいたのか』

 ほら、あなたの声がメロディを奏でているから。

 

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