A地方神話

片山壁

 男がいた。社があった。社の隣には横穴があった。何の穴ともなく、ただただそこに空いていた。起源についての伝承は無い。神が掘ったとか、聖人が云々だとか、そんなことは一切ない。男は朝夕と社に参った。そして死んだ。哀れな死にざまだった。一人で、自らの吐いたものに塗れて死んでいた。吐瀉物がのどに詰まったのだという。男はびた一文持っていなかった。死体は村の習わしとして、社の横穴の奥底の弔い場に放り投げられた。

 神を捜しに来た。ある人が言った。村人たちは一斉に首を傾げた。神ならこの世のあらゆる部分に存在している。捜す必要はない。長が裸の足を掻きながらだるそうに言った。のびすぎた髭には数匹の蠅が纏わりついている。いや、名前のある神を捜しているのだ。村人たちは前のめりになる。旅人は一息ためた。深い笠から鋭い目がのぞく。旅人は述べた。社の傍らで生き、社の傍らで死んだ男の名前を。

 哄笑があった。あれはただの気違いだよ。腹を捩らせながらある若者が言った。単なる不具の爺さんさ。あんな者が神なわけがないじゃないか。一人が笑いながら、旅人の肩をポンとたたいた。村人たちは皆面白がっていた。どうしてあの男の名を知っているかは分からぬが、あの男に代わる新たな気違いが現れたからだ。そうして日は落ちていく。赤光が爆発した。帳が下りた。無骨な竹の器に酒を注ぐものが現れた。火が掲げられた。闇の中に集落は環状に浮かび上がった。踊り狂い回り狂い酒を喉やそこらにぶちまける。宴だ。馬鹿を祝う宴だ。

中年の村人が旅人の隣に滑り込んだ。無理に渡された器を持って茫然としていた旅人は、酒をとくとくと注ぎこまれた。まあ飲めよ。村人は言った。酒は飲まない。そんなことより、早く神のところへ案内していただきたい。旅人は返した。村人は片眉をひそめ、それから同じ調子で隣の若い娘の酒器に徳利を傾けた。大きな猪の肉がもうもうと湯気を立ち昇らせながら運ばれてきた。それを見た一同は、一斉に前へいざり出た。

 夜鷹の絶叫が夜を裂く。村人は老若男女問わず、皆酔いつぶれていた。旅人は、自分を嘲りながら一人また一人と倒れていった村人を掻き分け、長を揺り起こしにかかった。滝のような白い髭は酒と土に塗れ、篝火に映し出されて赤く爛々と輝き、言い得ぬ穢れを放っていた。目が開く。連れて行ってもらおうか。何処へ。社に決まっているだろう。儂は酔っているんだ、行けるものか。長の喉元に冷たいものが触れる。旅人は小刀を抜いていた。刃先からは鮮血が滴っている。長がハッとして振り返ると、先程旅人に絡んでいた男の胸から血がどくどくと流れ出ていた。血は篝火に映えて絢爛に輝いた。そうか。長は立ち上がった。強く噛み締めた唇からは血が滴っていた。そして、村人全員が倒れ伏した混沌の環から、裸足で生い茂る草を踏みしめて、山の奥へと入っていった。旅人は始終小刀を喉に押し当て、彼とともに歩く。末期の松明が弱弱しく、村を映し出していた。

 烏が飛び立つ。社は果たしてそこに在った。柱は歪み苔が跋扈し、蜘蛛が罰当たりにも巣をかけていた。止まれ。旅人が言った。神がいる場所は何処だ。旅人は言った。長は怪訝な顔をして、社を指差した。違う。神を葬った場所だ。長はそう言われてようやく思い出した。社の穴を指差す。ほら、そこの横穴だよ。しかし、あれから何度満月が訪れたか分からぬ。白骨に成り果てているだろうよ。長は震える声で言った。しかし旅人は躊躇なく、古い幣が掛かった、人の背丈ほどの大きさの苔石の蓋をどかした。さあ、入るぞ。弔い場へ。旅人は満面の笑みを浮かべていた。

 蔦が壁を伝い、苔が一面に繁茂している。洞窟の中だというのに地上の植物が一面に茂っている。光苔も生えていると見えて、松明だけでも随分と明るい。長は肩をすくめて不安げに周りを見渡す。ここは聖域である。遍く神の祭祀は、満月を八回数える毎に行われる。祭祀と死者の弔い以外でここに入ることは固く禁じられている。脅されてとはいえ、禁忌を破ったことに対する恐怖もあるが、明らかに様変わりした洞窟内の様相の方が彼にとってはおぞましかった。とこしえの祭祀場に変化があってはいけないのだ。そんな彼にはお構いなしに、旅人は容赦なく足を進める。少しでも立ち止まると小刀が喉に当たる。彼に進むよりほかの道は無かった。

 蔦は奥へ奥へと続いていた。死者はこの洞窟の最深部にある穴に投げ落とされる。死者は大して重要ではないが、祭祀の聖性には死しても触れさせてやろうという慣習である。よもや。長は思った。この草木の常ならざる増殖はあの男の為なのではないか。だんだんとその思いが強まってくる。この蔦は全て、明らかにあの男を葬った所から伸びてくる。

 水が遥か上の天井から滴る。地底湖は豊かに湛えた青黒い水を揺らす。とうとう死者の弔い穴の鳥居が見えてくる。いつからか分からぬが、この村で死んだ者はわざわざここまで運ばれてゆく。さあ着いた。異常な朗らかさで旅人が言い、声が何重にも響き始める。長は思わず耳をふさぐ。あらゆる形状の緑が異常な密度で立ち込めていた。弔い穴は全面が緑で埋まっていた。旅人はそれを掻き分けて、そして長にもこっちへ来るよう合図した。ここまで来ては逃げられぬ。彼は唾を飲み、そして進み出た。

 穴を塞がんばかりに積み重なった、古代から続く真っ白の骨の上に、その男は生きているときのまま横たわっていた。彼の体に一切の腐敗は無かった。身は植物に覆われていないが、そこからは蔦や苔、葛などあらゆる植物が地面を伝って伸びていた。これを見て流石の長も、これを神だ、少なくとも人間ではないと認めるしかなかった。それどころか、不腐食の奇跡とその穏やかな死に顔に対し、本当に神性を感じ始めていた。彼は思わず、蔦に囲まれた御顔に、その不気味なほどに青白く細長い指を伸ばした。

 そのとき、だしぬけに旅人が、持っていた松明をその神の方に放り投げた。長が止める間もなかった。見る見るうちに、深緑の中の神の体は目も眩むような劫火に包まれた。炎は蔦を焼き尽くしながら円環状に燃え上がり、回るたびに勢いを増していく。洞窟の静寂な闇が、凄まじい赤へと呑み込まれていく。長は茫然としていた。気づけば、旅人の手によって火が届かない場所まで引き出されていた。なぜこんなことを。長は顔を真っ赤にして叫んだ。お前が神と呼んだものではないのか。そして、抗議の念を込めて洞窟を覆いつくす緑を片端から炭化させていく巨大な火球を指差した。そうだ。旅人はそう言って笠を取った。その頭に髷は無かった。そして呟いた。奇跡は消しておかなければならない。どうせ放っておいたら儀式のときに見つけてこれを神として崇めだすんだ。長は後ずさりした。くちをぱくぱくさせながらかろうじて声を絞り出す。お前は……。旅人は答えずに、懐から異常に精巧なつくりの鉄の筒が付いた枝のようなものを取り出した。そして鉄の突起に人差し指をかけ、二、三度引く。轟音。血とそれからまた轟音。反響と合わせて凄まじい響きが巨大な空洞を揺らす。鮮やかな血が火球の前でほとばしる。長はよろめき、その場に倒れ伏した。頭と胸から流れ出る赤い液体が、炎で鮮烈な緑に照り映える苔を呑み込んでいった。

 



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A地方神話 片山壁 @yotsu_yuki

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