FATHER

にゃんしー

第1話

 わたげのついた耳かきが見つからなくなって、そのまま部屋の片付けをしていると、「昔のジャンプのほうが面白かったな」と短パンからはみ出した脛を掻きつつ胡座を組み、カルビーで塩辛くなった指を舐め、かびくさい雑誌を開いているとき、挟んであった四つ折りのテストの裏に、大きなマントを背負った少年が描いてあった。あのころから変わらない坊主頭とあこがれていた丸眼鏡を見るかぎり、どうも自分の姿を描いたようだった。子どものころは、ヒーローになりたかった。大切なひとのピンチに颯爽と現れて、自分にしか使えない必殺技で、とうっ! 教室が目出し帽の悪者たちに占拠されて、はげしい銃撃をかわしつつ、ライダーキックで倒す妄想もよく膨らませたっけ。つまらなすぎて、欠伸とともに、くしゃくしゃにした紙をバックトスで放った。ヒーローではなかったけれど、肩が強く足の速い名ショートではあった。甲子園に出て下位ながらドラフトで指名された投手から目の醒めるようなツーベースで左中間を割ったこともある。背が低くてストッキングをむきだしに穿くとますますガリガリに見えたから舐められていたんだろう、先頭打者の初球、シニアリーグのセオリーどおり入れに来たど真ん中の変化球だった。あのころの夢はゆるりとカーブして、背の高いゴミ箱に吸い込まれ、かたん、と耳ざわりな音を立てた。試合後のさびしい球場のように、静まりかえった六畳間を見渡してみる。「復興」のお仕着せで安く借りることのできたワンルームマンションは、なるほどひとりで暮らすには十分だけれど、かつて想像していたのはこんな暮らしだったか。人生も折り目を過ぎ、紙の角を合わせ確かめるみたいに、過去を振り返ることが増えた。仕事で折込チラシを作るのが苦手だったことを思い出す。子どもはおろか、伴侶もいない。ヴァギナのあじも知らなかった。ヒーローとはいったい何なのか、分からないけれど、小汚い部屋でシーリングライトのカバーに溜まったくろい小虫の死骸を叶えられなかった夢みたいにかぞえている、いまの自分がヒーローなはずがない。「復興」を口当たりのいい理由にヒーローのお仕着せをしているのは、自分だ。幼いころから母親がむりやり見せてきたアンパンマンは楽しむふりこそしたけれど嫌いだった。同族嫌悪かもしれない。

 好きなひとは片手で数えきれないぐらいいた。初恋の相手からして、同性だった。クラスで取り立てて目立ちもしない、数学の時間は机につっぶして居眠りし、「やべ、勃起した」と授業が終われば「起立」の号令にも尻をようやくあげるだけで立ち上がれなくなるような、おとぼけの男子が好きだった。一方、女子におもねることはなく、ふたりきりで帰るなど、仲のよい女子はそれ以上におおかったのだが、距離感を間違えたのだろう、夕暮れの公園でバトミントンをしていたところをませた男子に見とがめられ、陰口とともに、こう仇名を付けられた。

「すぐ女子にガッツくから、ガッツくん」

 懐古ブームで流行のヴィレッジピープルになぞらえた囃し歌をいまも帰りみちの耳に焼きつかせて覚えている。ガッツ、ガッツくん♪ 女にガッツくガッツくん……♪

 ほんとうに好きなのは君だ、なんて、さいきんにぎやかな「同性愛への理解」など当時はいまどきの感動ポルノよりよっぽどドラマだったし、迷惑をかけることをおもんぱかればなおさら、言えるはずもなかったけれど。

 建築の現場で働いていた父親の都合で、中学までは、転校が多かった。和歌山も行ったし、広島も行ったし、北は根室、南は志布志まで、各地を巡るうち、いつの間にかお気に入りのキン消しがなくなったみたいに、どこかでなにかを置き去りにした気がする。いろんな町で友だちはできて、ほとんどは女子だったが、いまはほとんど交流のない彼女らがほんとうに友だちだったのかも分からない。フェイスブックでばかり人生が過ぎていく。リストにならぶ「友だち」とはなんなのか、いちおうプロフィールだけたしかめて旧姓にうなずきつつ承認のボタンを押すたび増えた数字に釈然としない分からなさは、「ヒーロー」と口にしたときの、股間が縮みあがるような、気持ちわるさと繋がっている気がする。

 わずかに思い出せる男の友だちがいた。自衛隊機の飛び交う空がひろい町に過ごしたときにちょっとだけ仲がよかった、繊細で、分数の割り算で両手の指を折り唸るぐらい、頭がよくはなかったけれど、社会の教科書の日本史頁に浮世絵でならぶようなすっきりした醤油顔で、くもんの子がルート2を紹介したときの「いよいよにいさんゴムはめる」というしょうもない語呂合わせでも、ひきつけみたいな声をあげてよく笑う子だった。あいつのえびす様みたいな笑顔が好きだった。下の名前ですら思い出せないのに。

 ヒーローになるということは、結婚し、子どもを作り、家庭を守ることでないかな、といまさら気づく。保健の教科書にも倫理の教科書にも載ってなかったし、因数分解なんかに時間を費やすくせ、セックスのやり方は、誰も教えてくれなかった。まだ同性愛を受け入れられなかったころ真剣に耳をかたむけてくれた生活指導の教師でさえも。同性愛に理解があることをうたうBL好きな女性たちも。同性婚の法制化を旗印に政党支持率を上げるべく躍起になっている国の偉いひとたちも。リベラルがうれしそうにかかげる「自由」とはなんだっただろう。しかくい窓の向こうの絵の具で塗った青を消しゴムで擦ったようにくすんだ空を見ていると、町も自分も、勝手にされたことが悔しくて、泣きそうになる。

 さいごの恋のことを思い出している。彼が津波に呑まれてから、ひとを好きになることを止めた、あるいは、諦めた。一度キスをしたきりで、驚いた目をしたけれど、咎めることも、距離を置くこともせず、変わらず呑みに付き合ってくれた彼を、失ったことの意味を考えている。「上り坂と下り坂とどっちが多いか」と問うくだらない質問がよっぽど本質的なように、出会いの数だけ、たくさんの別離があった。もう会えないということは、死んだことと同じだと思っていたのに、その差分に、「ペットボトルを咥えて飲むか咥えずに飲むか」を彼と議論したときとおなじぐらい、執拗なほど意味を見出そうとしている。「咥えて飲むなんてえろくない」と茶化したら顔を耳まで真っ赤にするような、いい男だった。

 だけどさ、お前と子どもを作れないなら、ほかのどんな形も、結婚でさえも、俺には意味がなかったよ。

「海晴……」

 つぶやいて、アメリカンスピリットのしろいわっかをピンナップだらけのきばんだ壁に吐く。水着姿のグラビアアイドルに混じり、嘘をつくみたいに、高校のころの自分と海晴が不器用なピースサインを揃えていた。好きな煙草と嘘をつくときの癖はずっと変わらない。変えてしまえば、彼が置き去りになる気がして。

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