第2話 オタク、コミュ障。恋人はいない
ああ、ホールの壁になりたい。
そして貝塚響也の歌声をずっと浴びていたい。
「お忘れ物のないようお帰りください」
場内に流れるアナウンスが俺を現実に引き戻す。俺はホールを出た。同じ敷地内に商業施設がある。夕食をとってから帰ろう。
人の波に逆らわず、ゆっくりと移動していると後ろから声をかけられた。
「あの……。もしかして、今日ソロ参加ですか?」
立っていたのはボブカットが似合う、快活そうな女性だった。白いブラウスにジーンズというシンプルな出で立ちである。メイクはとてもナチュラルだ。貝塚響也の女性ファンは清楚な人が多い。年齢は俺と同じ、27歳ぐらいだろうか。
「もしよかったら、一緒に食事をしませんか。私、周りに貝塚さんについて語れる友達がいなくって。ライブの感想とかシェアできたら嬉しいです」
女性はきっと勇気を出して俺を誘ってくれたに違いない。断る理由がないので、俺は笑顔を返した。
「俺でよければ」
「ありがとうございます」
ホールを出た俺たちは、商業施設にあるバルに入った。店内は混雑していたが、幸いカウンター席が空いていた。
タパスをつまみながら、女性が俺に質問を投げかけた。
「ファン歴、長いんですか?」
「貝塚さんがデビューした時からですね」
「そうなんだ。私はまだ日が浅くて」
「初期の楽曲は、大胆な転調が多いんですよね。常人はまずカラオケで歌えません。貝塚さんの歌は貝塚さんにしか歌えない。その唯一無二なところが俺は大好きなんですよ。朝起きた時も寝る前も、必ず貝塚さんの曲を聴いてます」
「……へえ」
「貝塚さんって宇宙船の船長みたいだって俺は思うんです。広い銀河で迷子になってる俺たちを歌という翼に乗せて、明るい方へと導いてくれる存在だから」
「その解釈、すごいですね……」
女性の顔には、「こいつ、愛が重くてキモいオタクだ」と書いてあった。
ああ、またやってしまった。
俺は昔からこうなのだ。口下手なくせに、自分の興味があることに関してはガーッと一方的に喋ってしまう。
「アボカドと生ハムのブルスケッタでございます」
美味しそうな一品が運ばれてきたが、女性は腕時計を眺めている。
俺は無言で料理を口に運んだ。
リカバリーすべきか? でもどんなことを言ったらいいんだろう。さっきのウザ語りによって、女性の心は透明なシャッターによって閉ざされてしまった。コミュ障にとっておなじみの展開である。
やがて俺たちは注文した料理をすべて平らげた。
「お話できて楽しかったです。それじゃ!」
女性は軽やかな足取りで去っていった。
小さな背中が見えなくなったところで俺は気づいた。これって逆ナンだったんじゃないか? せっかくいい感じの女性と食事を共にするチャンスに恵まれたのに、壊滅的なトークスキルのせいで台無しになってしまった。
ああ。
どうして人生にはシナリオがないのだろう。いつだってぶっつけ本番で、目の前で起きた出来事に即興で対応しないといけない。
帰りの電車に揺られながら、俺は貝塚響也の失恋ソングを聴いた。
貝塚響也のウィスパーボイスは温かくて、柔らかな毛布にくるまっているような心地になった。
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