エアレンデルで祝杯を 〜推しに求愛された地味で平凡な俺の話〜
古井重箱
第1話 俺の推し
人は誰しも、宇宙に放り出された遭難者だ。
地図やコンパスを持って生まれてくる人はひとりもいない。乳幼児の時分は保護者から食事を与えてもらう必要だってある。
迷ったり悩んだり、怒ったり泣いたり。誰かを妬んだり。いつだって安らぐ暇がない。望んで生まれてきたわけじゃないのにな。人生は苦労の連続だ。
だから人は求める。心を癒し、未来へのパワーを授けてくれる至福の音楽を。
「歓喜も絶望も盤上の遊戯」
美しいファルセットが、アリーナ席にいる俺を魅了した。
約8000人のキャパを誇る都内のホールは満員だった。
ステージの上に立っているのは貝塚響也。幅広い世代から支持されているシンガーソングライターだ。白いシャツを着て、ウェーブヘアを肩まで伸ばしている。大柄で手が大きいので、マイクスタンドが華奢に見える。
「上がりを夢見るゲームの駒を神様が嘲笑う」
俺、沢辺誠司は、貝塚響也の甘くてスモーキーな歌声に聴き入った。みんなに愛されている有名な曲なのに、まるで俺個人に向けられた作品のように感じてしまう。
人間には琴線というものがあるらしい。
貝塚響也が奏でる音楽は、俺の胸の内側にある極めてパーソナルな部分に届く。こんなアーティストは他にはいない。
曲を歌い終えた貝塚響也が舞台袖に下がった。
俺たち聴衆は拍手をして、アンコールをねだった。
やがて、貝塚響也が再びステージに戻ってきた。聴衆のボルテージがマックスまで上がる。
「みなさん、ありがとう」
貝塚響也が流れるような所作で一礼した。
「今日という日を、みなさんと過ごせて嬉しいです」
拍手と貝塚コールが鳴り轟く。
「それでは最後の曲になります。『エアレンデルで祝杯を』」
ここでデビュー曲が来たか! 今日のセトリ、最高だな。
俺は軽快なメロディに合わせながら、肩を揺らした。もちろん、隣の人の邪魔にならないように控えめな動きである。俺は貝塚響也の火力強めのファンだが、困った客にはなりたくなかった。
「さあ、エアレンデルに出かけよう」
このサビ、大好きだ。一気にメロディが弾ける疾走感がたまらない。エアレンデルというのは、地球から129億光年も離れている星らしい。貝塚響也のラブソングはスケールがでかい。
「果てしなく遠い星にも、きみとなら行ける」
この歌詞に何度励まされたことだろう。貝塚響也の曲を聴いていると、自分の可能性を信じたくなる。
「遥か彼方で待っている、きみと僕の星」
ホールは万雷の拍手に包まれた。
この空間に居合わせた誰もが貝塚響也を祝福していた。この人は音楽の神様の愛し子だ。
「ありがとう! また会いましょう!」
貝塚響也は手を振りながらステージをあとにした。いつまでもこの余韻に浸っていたい。俺はその場からしばらく動くことができなかった。
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