第16話(side:天佑)
執務を全て片付けたものの、随分と遅い時刻になってしまった。琴葉は寝ているだろうか。
そんなことを考えていると、黄がやってきた。
彼がこの部屋にやってきたのは、もう一度琴葉の様子を報告するよう私が命令しておいたからだ。
「それで琴葉はどうだった?」
「ええ。本日は簡単な文字を教えさせて貰いました。筆の扱いには慣れていないご様子でしたが、文字を覚える能力は高く、じきに覚えられるでしょう」
黄はにこやかに琴葉の様子を語る。
筆に悪戦苦闘している琴葉の姿を想像すると、少しだけ心が癒される気がした。その緩んだ気配が黄にも伝わったのだろう。黄が穏やかに微笑む。その慈愛めいた視線が子供扱いされているようで、面映い。
黄の前で子供っぽくなるのは、私の幼少期を知られているせいだろうか。
私が『王』としてではない『個人的』な振る舞いを見せるのは、ごく限られた者だけだ。
「陛下」
「なんだ?」
「なぜ陛下は貴妃様を正妃に据えなかったのですか。ずっと求められていたお方でしょう?」
「約束を交わしたからな」
「約束、ですか……?」
黄が私の真意を探ろうとしていることは分かっている。だが、琴葉と交わした約束を他言するつもりはなかった。
「では正妃にならなかったのは貴妃様の意思にございますね?」
念を押すようにして黄が再度尋ねる。にこやかだった彼の表情が抜け落ち、暗い瞳でわたしを見据えていた。
「黄?」
「貴妃様が陛下を拒まれるのならば、私の判断は正しかったでしょう。あの方は陛下にふさわしくありませぬ。あれでは陛下を支えられますまいーーならば眠ってもらうまでのこと」
自分に言い聞かせるようにして黄が呟く。
「ーー貴妃に何かしたのか?」
「陛下は稀人のことになると感情的になり過ぎるきらいがある。それでは立派な王になどなれませぬ」
「説教は後でいい。貴妃に何をした!」
言え、と怒鳴ったところで、武官達が何事かと様子を見に部屋に入ってきたので、黄を拘束するように命じた。それを黄は抵抗することなく、受け入れる。
いっそのこと抵抗してほしかった。
そうすれば濡れ衣を着せてしまったのだと思えるのに。
だが、彼の目は静かだった。ともすれば凪いでいると思うほどに。
「陛下。私が貴妃様に何をしたか。あなたさまであれば、きっと分かりまする」
最後にそう呟いた黄はそれきり押し黙った。
***
駆け抜けるようにして琴葉の部屋を訪ねる。乱雑に扉を開けて、大股で寝台へと向かう。逸るような気持ちで琴葉を見れば、彼女は穏やかに寝息を立てていた。一見すると彼女はただ眠っているように思える。
(だが、それならば黄の発言の真意は……)
ゆっくりと周囲を検分すると、枕元に見慣れない匂い袋が置いてあった。
不審に思い、その匂い袋を開けると、中から出てきたのは人型に切り取られた紙が折りたたまれていて、中心には赤い文字で呪いの言葉が書かれている。
(呪いだ……!)
琴葉をこの国に喚ぼうと道術を研究していた。その時、この呪いを書物で読んだことがある。
この呪いは人の命を捧げ、その時に流れた血を使って人型の紙に呪いの言葉を刻ませる。人の生が封じ込められた呪いは対象者を強烈に相手を呪うもの。
「琴葉……!」
呼び起こそうとしても、彼女は目を覚まさなかった。
琴葉の寝顔は穏やかだ。しかし手を握ってみると異様に冷たいーー彼女の命が尽きようとしているのだ。
(嫌だ。死なないでくれ!)
人を呼ぶ。その大声に女官らが集まる。彼女らに早く医師と術者を連れてくるように命じた。
この呪いは時間を追うごとに強力なものとなる。時間が経てば、それだけ不利になってしまうのだ。
(琴葉……!)
そっと彼女の手を包み込む。だが体温を分け与えようとしても、時間を追うごとに琴葉の手はぬくもりを失っている。
いつか琴葉は私の手の冷たさに驚いていた。しかし、今では彼女の手の方がずっと冷たいではないか。
ーー琴葉の命が尽きようとしているのだ。このままでは永劫に彼女は目を覚さない。深い眠りに堕ちて、目を開くことがなくなる……
永遠の別れがすぐそこまで来ている。
闇が彼女を連れ去ろうと、迫ろうとしていた。
震える手で彼女の両手を握り締め、少しでも長くそれを押し除けようとした。
(わたしは琴葉が死ぬために喚んだんじゃない)
部屋の前で待機しているであろう武官達に、怒鳴るようにして、医師と術者を連れてくるように命令する。
そして、匂い袋の中身を改めて検分した。
逸る気持ちでその中身を見れば、強い違和感を抱いた。
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