【連載小説】きれいな海がみえる
青いひつじ
第1話 運命の輪
『おぉ、今日も海がきれいじゃのぉ』
「おじぃ。それやめろよ、気持ち悪い」
青緑色の宝石を浮かべたような海にジェンギスは手を合わせそっと何かを願い、アスランはそれを怪訝そうに見ていた。
"この海は、神様である"
どこかの誰かがそう唱え、国の人々は簡単にそれを信じた。
『間もなくすると隕石が落ちてくる。しかしそれは近くの大きな海に落ちるだろう。今まで体感したことのない振動がこの国を襲うかもしれない』
20年前、ひとりの占い師がそう予言した。無名の占い師が発した負の言葉は、人々を崩壊の恐怖に怯える日々へ突き落とした。
それから数ヶ月たったある日、王政から隕石落下に備えるよう非難警告が出された。
"全ての国民は、自身の家の地下室へ避難するように。そして一晩はそこで耐え忍ぶように"という内容だった。その夜国民は言われた通りに一晩を地下室で過ごし、海の近くに住んでいた者は夜中遠くから、ごぉーんという何かが地面を破壊するような音を聞き、少しの振動を感じたという。
次の日の朝人々が外に出ると、雲ひとつない青空にカモメが泳ぎ、海には外国からの貿易船が浮かんでいた。取り込み忘れた隣の家の洗濯物は、風に飛ばされそうになりながら気持ちよさそうに揺れ、街は何ひとつ変わらずいつもの朝を迎えていたという。
『‥‥海が我々を助けてくれたんだ‥‥この海は神様だ、そしてあの占い師も』
誰かが高らかにそう唱え、3秒ほど沈黙が流れた後、顔を見合わせた人々は安堵の涙を流し歓喜の声を上げた。
『私たち神様に護られたのよ!』
『この国の未来は安泰だ』
それからというものこの国では、海と占い師を神として崇めるようになった。海を"タンル海"と名づけ、占い師を"勝利の女神"を意味する言葉と彼女の名を混ぜてニケイラと呼んだ。
そして王政には国王を支える官僚、常備軍に加え、墜落を予言したニケイラ、さらには隕石の軌道を予測した科学者が仕えるようになった。この国が少しずつおかしくなったのは、きっとこの頃からである。
朝7時になると王政の城の鐘が鳴る。からくり時計のように、鐘の音を合図に街が動き出す。しばらくすると、城のバルコニーにニケイラが現れ、両手を握り何かを願っていた群衆たちは女神の訪れに頬を緩めた。
『皆さま、おはようございます。今日の国の運勢は‥‥"塔のカード"です。塔は崩壊や誤解、災難などを表します。もしかすると、今日は皆様の身に小さな災いが降りかかるかもしれません。しかし、私が皆さまををお守りしております。何も心配はいりません。そしてまた明日になれば新しい風が吹きます。どんなに辛いことも必ず終わりが来ます。苦しくても前を向いて歩いていましょう』
続いて科学者は言った。
『私には聞こえる。この永遠に続くダックブルーが奏でる行進のアンセムが。花吹雪の中を飛び交うロケット花火もいいだろう。全てがこの国を強くする活性剤になるのだ。今こそうちなる虫取り少年を呼び覚まそう!空へと続く螺旋階段を駆け上がり、自分だけの絢爛とした太陽を掴み取ろうではないか。あぁ善良な国民たちよ、我々は小屋で飼われるか弱い羊などではない。神に選ばれた、どんな困難も打ち消す勇猛無比の獅子なのだから。それでは今日も一日、善い行いを』
そう告げるとにやりと嫌な笑みを浮かべ、胸を打たれた人々の深く重たい拍手が街中に鳴り響いた。
「また小判鮫が騒いでらぁ」
『こらアスラン。そんな言い方はよしなさい。あのお方は、荒地の地獄送りになりそうだった我々を、翠緑の楽園へと導いて下さったのだ。あの予言が無ければ王政も科学者も、老朽化し泥水を垂れ流す水道管のように、まるで使えないと非難されていただろう。彼らが救ったのは、人間だけではない。この国そのものなのだよ』
「適当なこと言って不安を煽いでただけだろ。そしてそれがたまたま当たった。そんなことを信じて崇めて、自分の生きていく道まで操作されるなんてどうかしてる」
『アスラン、人間というのは何かを信じながらでないと生きていけない生き物なのだよ。20年前の隕石墜落で、人々は目が覚めたら大切な人がいなくなっているかもしれないという恐怖を知った。なにも占いや宗教だけではないさ、おまじないやお守り、その辺に落ちている言葉やちょっとした習慣だってそうさ。人間はそういった目に見えない力を信じ願う。そうして自分や大切な人々が今日も一日何事もなく健康に過ごせる、それが何にも代え難い幸せだということを知った。そしてまた神様に感謝するんだ。今日もありがとうございましたと』
「そんなのは幸せじゃない」
『はぁ、きっとお前さんも大きくなったら分かる時がくるさ。さぁ、もう行くぞ』
アスランとジェンギスは市場で葉野菜と鋭い銀色の魚を買い帰宅した。アスランは戻るやいなや裏小屋へ向かった。今朝割った薪を片付けた際、屋根に穴が空いているのを見つけた。すぐに直したかったが、朝はいつも薪割り後にジェンギスと市場に出かけるので、戻ったら直そうと考えていた。
裏小屋の壁には金槌や斧、ノコギリ、カンナなどの手工具が掛けられており、木箱の中にはノミ、ペンチ、スパナ、ドライバがしまわれている。アスランは金槌をとり、袋の中から4本の釘を取り出した。穴の部分を木の板で塞ぎ、垂直になるよう釘を立てる。始めは金槌でトンッと強めに釘を打ち込む。垂直に刺さったのを確認すると、トントンと軽く打ち込み、半分ほど入ったところから力を込めて一気に打ち込んでいく。
『アスランはバークに似て器用じゃの。誰も教えてないのに、知らない間にいろんなことができるようになる。ワシは釘一本上手く打てなかったが、あいつは誰に似たんだか』
「父さんも得意だったの?」
『あぁ、あいつは王政直下の製造部隊に指名されるほどの腕だった。ここにある工具は全部バークが集めたもので、わしは触ったこともない。勉強は出来んかったが、物づくりへのこだわりは誰にも負けないやつだった』
「そうなんだ」と言うとアスランは視線を手元に戻し釘を打ち始めた。アスランの父バークは、アスランが3歳の頃に事故で亡くなった。
だから、父のことで覚えていることはほとんどなかった。棚に置いてある写真に映るのは、肩車をしてもらい幸せそうなアスランと、息子を乗せ太陽のように笑うバークの姿だった。
しかしアスランはその写真を見る度に、よく覚えてない父の笑顔に何を思えばいいのか、複雑な気持ちになるだけだった。ジェンギスは写真の横に小さな瓶を添え、摘んできた花を生ける。それだけで、ジェンギスがこの写真をどれだけ大切にしているか分かるから、アスランは特に何も言わなかった。
『アスラン、明日からまた学校が始まるな。これから朝市はひとりで行ってくるよ』
「あ、もう学校か。まぁもし行ってみて大変だったら教えて。何か方法を考えるから」
『本当は心優しいところもあいつ譲りじゃの』
「うるせぇおじぃ」
アスランは家から徒歩30分のところにある小学校に通っている。アスランが暮らす村は人口500人ほどの小さな村で、小中高の一貫校がひとつあるだけだった。小学生のクラスは1クラスで全30名。誰が誰を好きとか告白したとかフラれたとか、いい噂も悪い噂も一瞬にして広まってしまうあまりにも狭すぎる世界だ。
『おい、セミル。お前の父親は王政批判団体に入っているらしいな。自由と解放だと?王と神々がこの国を守ってくださったというのに、恩知らずな父親だ。海に投石し小指を切り落とされてもなおそんな馬鹿げたことを続けるのか、馬鹿は親も馬鹿なんだな』
コスカンがセミルの机を蹴り、教室には糸をピンと張ったような空気が漂った。クラメイトたちはまるでこの家は留守ですよと主張するように電気を切り、いつもは読まない本を開いて息を潜めた。なぜ誰もセミルを助けようとしないのか、それにはコスカンの両親が関係していた。コスカンは、長年に渡り人々を支え続け村の商業を再建させたウシュック商会の息子だった。
子どもたちの両親は言った。コスカン君とは絶対に喧嘩してはいけない、石を投げられようと泥を飲まされようと、全て自分が悪かったと言いなさい。さもないと、私たちに明日はないと。
ガンッと再度机を蹴る音が教室に響き渡り、より一層の緊張感に包まれた。
そんなことも知らず呑気に登校してきたビュゼはアスランに『おっはよ〜。寝坊するとこだった〜』と鼻歌混じりで声をかけ、鞄から教科書を取り出した。
『なになに?またセミルやられてんの?ちょっとはやり返したらいいのにね』
「あぁ、そうだね。ビュゼ、何かいいことでもあったの?」
『アスラン知らないの!?今日転校生が来るんだよ!しかもあのカンカーラ国から!どんな子かなぁ、かっこいい男の子だったらどうしよう!今日の国の運勢は"運命の輪"だったのよね〜、私の運命が動き出しちゃうかも〜』
ビュゼは席に着くと、前髪を整えたり洋服の皺を伸ばしたりと落ち着かない様子だった。
カンカーラ国は、アスランたちの住むアルコダ国の隣国で、アルコダ国の10倍の国土をもつ大国だ。人口も非常に多く、高度な工業化や経済発展を達成し、様々な分野で目覚ましい改革を起こし続ける先進国である。
それゆえに、子どもたちに対する教育のレベルも別格であると、アスランはジェンギスから聞かされたことがあった。
新聞には大学に進学した12歳の少年が取り上げられていたが、アスランは自分とは関係のない世界の話だと思い、関心も持たず新聞を閉じた。
『アスランは楽しみじゃないの!?めちゃくちゃ可愛い女の子かもよ!』
「いや、別にいいや、そうゆうの」
アスランの意識は今、転校生の正体よりも、セミルに注がれていた。またコスカンがセミルを傷つける発言をしようものなら、次は止めに入ろうと心に決めていたのだ。セミルを守りたいという気持ち、そして、とりあえずの信仰心に抵抗感をもつアスランにとって、コスカンの銃口は自分にも向けられているように感じたからである。
『おい、セミルなんとか言ってみろよ』
コスカンがセミルの肩を小突き、アスランが席を立とうとしたその時だった。
ガラガラと教室の扉が開き、クラス中の視線が黒板の方に集まった。青いネクタイを締めたメーメット先生が入ってくると、少し遅れてひとりの女子生徒が入ってきた。隣のビュゼは『女子か〜』と天を仰ぎ、崩れるように机に顔を突っ伏した。
「はじめまして。カンカーラ国から来ました、ジーベルといいます。よろしくお願いします」
そう挨拶をし頭を下げると、ジーベルのまっすぐ伸びた金色の髪が前に垂れてきた。白いツルッとした触り心地の良さそうなブラウスに、風が吹くとふんわりと広がるスカートを履いていた。
ジーベルが顔を上げた瞬間、アスランと目が合った。ジーベルの瞳は海よりも青く透き通っていて、この時アスランは心の中をドンッと殴られるような衝撃を感じた。彼女が持っている物全てがアスランにとっては初めてだった。
『みんな、今日からよろしくな。じゃあ、ジーベルは、あそこ。黒い長い髪の男、あいつの後ろに座ってくれ。アスラン、色々教えてやってくれ』
メーメット先生がアスランの後ろの空いている席を指差した。ジーベルはゆっくりとアスランに近づき『よろしくね』と微笑むと、横を通り過ぎ席に座った。この時、柔らかい薔薇の香りがアスランの鼻腔を蕩した。
『なんかすっごい、いい匂いしなかった!?』ビュゼがアスランに耳打ちした。
一限目が始まってすぐ、チョンチョンと背中を突かれる感覚にアスランは後ろを向いた。
「教科書忘れちゃった。一緒に見てもいい?」
ジーベルの薄い唇は二日月のように美しい曲線を描いた。頭を横に傾けると、空気中にあの香りがばら撒かれた。薔薇には、麻薬のように危ない成分が含まれているのかもしれないとアスランは思った。甘い香りは瞬く間に脳に到達し、深い青の瞳に支配されるようにアスランは動けなくなってしまった。
「あれ?聞いてる??」
ジーベルが手をヒラヒラ振ると、アスランはハッと意識を取り戻し急いで教科書を渡した。そして「ビュゼ、教科書見して」と机をくっつけた。心臓は先ほどよりも激しく、まるでハンマーで殴られているようにドッドッドッと鳴っていた。
この時アスランは、止まっていた運命がメリメリと音を立て動きだしていることに気づいていなかった。そして、永遠のような青い空に浮かぶ輪っかを見た時、この鼓動の意味を知るのであった。
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