追憶少女のアーカイブ

三船十矢

第1話 能力名『追憶』

 ある人は望む。この思い出だけは絶対に忘れたくない、と。

 別の人は望む。こんな記憶は2度と思い出したくない、と。


 どちらも本音で、どちらも希望。甘美な思い出には無限に浸りたいけれど、辛くて苦しいだけの過去なんて今すぐにでも消し去りたい。


 だから忘れることは不幸だけど――

 幸せなことでもあるのだ。


 記憶の奥底には、消えていった過去が沈んでいる。その人の根幹を成す時間の残骸、成れの果てが。


 だけど、それを覗くことができたのなら?

 再び自由に思い出すことができたのなら?


 あなたは――私は――何を望む?


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 中学校に入学して、もう1週間が過ぎた。

 慌ただしい! 忙しい! そんなふうに日々は過ぎていたけれども、いつまでも続くことはなく、すでに『日常であり普通』となりつつあった。


「おはよう」


 自室から出てきた私は、朝の光が柔らかくリビングにやってくる。

 テーブルにはお母さんの作ってくれた朝食が並んでいる。トーストの香ばしい匂いが漂い、目玉焼きがほかほかと湯気を立てている。瑞々しい輝きを放つサラダに、とても綺麗な色の100%オレンジジュース、ああ、素晴らしい。食欲がそそる。

 朝食を食べていると、対面に座っている両親がこんな話を始めた。


「そういえば、もうすぐあなたのお母さんの命日じゃない?」


「ああ、そうだな。墓参りに行ってくるか」


「何か準備することある?」


「いや、別にいいよ。俺一人で行ってくるから」


 そして、こうポツリと続けた。


「もう亡くなってからだいぶ経つなあ……絶対に忘れないと思っていたけれど、意外とそうでもないんだな」


 とても悲しそうな声だった。


「どういうこと?」


「お袋の記憶だよ。迷惑ばっかりかけたけど、愛情深く育ててくれたのにな。感謝して、絶対に忘れないって葬式のときに思ったのにさ」


 お父さんが頭の近くで手をぱっと広げた。


「もう、あんまり思い出せないんだよな」


「仕方がないわよ。人間はそういうふうにできているんだから――」


 お母さんも遠い目をする。


「私もお義母さんにはお世話になったけれど、思い出せることは少なくなったかな」


「嫌なもんだなあ、母親のことなんて絶対に忘れたくないのに。記憶が頼りなくて困る」


「そのままボケないでね」


 お母さんの冗談が追撃する。

 二人の言葉を聞きながら、私はふと自分の記憶を探り始めた。

 お父さんのお母さん――つまり、お婆ちゃんには私もお世話になった。小学校に上がる前、両親が忙しくて、お婆ちゃんの家に預けられていたからだ。


 お婆ちゃんは一言で言うと、善良な人だった。

 とても優しく明るくて、両親とあまり会えない日々を嘆く私の心を太陽のように照らして温かくしてくれた。当然、私はお婆ちゃん大好きっ子だった。


 だけど、そんな私の12歳というピカピカの脳細胞でも、記憶は漠然としていた。

 私の心を慰めてくれたお婆ちゃんの声も、私を包み込んでくれた優しい温もりも、遠い霧の向こう側にあるように判然としない。


 それは、確かにそこにある、と感じられるのに。

 時間は全てを押し流す、忘却の果てへ――


 そんなの嫌だ。

 お婆ちゃんの記憶を忘れるだなんて、そんなのはないよ。


 だから、私は『力』を使うことにした。

 記憶の奥底に沈んでいた声と光景が、急速に音と形を取り戻していく。


 ――いいかい、怖いことなんて何もないんだよ。佳奈はいい子だよ、いつかわかってくれるから。そんなに落ち込んじゃダメだよ。そういう日もあるんだよ。


 記憶の底に沈んでいた言葉が、耳元で囁かれたかのようにクリアに聞こえた。

 まるで、お婆ちゃんが今そこで話してくれたように。


 それは幼い頃、近所の友達とひどく喧嘩して「もう、佳奈ちゃんとは絶対に遊ばない!」と言われて帰り、家で大泣きした日の記憶だった。泣きじゃくる私を抱きしめて、お婆ちゃんはそんな言葉を言ってくれた。


 声だけじゃない。

 抱きしめてくれた温もりも、さっきのことのように思い出せる。うん、大丈夫……お婆ちゃん、忘れないからね。


「お婆ちゃん……」


 喜びとともに、そんな声がこぼれた。いや、それだけじゃなくて――

 すん、すん。

 あ、鼻が小さく音を立てて、目元がうるっとする。これは、あれだ。涙だ。

 あ、涙がこぼれる。

 そんな私を見て、父親が口元をほころばせた。


「なんだ、佳奈。お婆ちゃんのことを思い出して泣いているのか?」


 まだまだ子供だな、と言わんばかりの声だが、言い返せない。思い出しているのは事実なので。


「あいかわらず泣き上戸だな、お前は」


 父親の言葉は、しっかりと私の属性をとらえた。

 泣き上戸。私は感極まりやすい性格で、ちょっとしたことですぐに泣いてしまう。今は思い出したお婆ちゃんへの気持ちが爆発してしまった。


「いいじゃない……別に」


 ぐすぐす。まだ気分が落ち着かない。


「いいよ、いいよ。むしろ、ありがとうだ。お婆ちゃんのこと、そんなに思っていてくれてさ。パパも嬉しいよ。きっと、天国でお婆ちゃんも喜んでいてくれるだろう」


 うんうん、と頷いてお父さんが続ける。


「お父さんとお母さんのことも忘れないでくれよ」


「忘れないよ。絶対に忘れないから」


 その絶対は、本当の意味での絶対。

 いつの頃からか、私には記憶に関する謎めいた能力がある。私はそれを『追憶』と呼んでいるのだけど、ようするに『忘れかけた記憶を鮮明に思い出す』ことができるのだ。

 地味な能力に思えるが、実は意外と役に立つ。

 こうやって好きだった人との思い出に浸って気分をよくできるし、家でものを無くしたときも記憶をたどってすぐに探し出せる。人間は1日のうちに何度も『忘れている』。それをはっきりと思い出せる能力はなかなか役に立つのだ。


「じゃ、行ってきまーす」


 朝食を終えた私は、ブレザーの制服に着替えて中学校へと向かった。


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