【第二夜】 彼



 ああ……。なんだ。

 やっぱり、わたしは首を吊って死んだようだ。

 じゃあ、ここいるわたしは……?


 いわゆる幽霊というものになったのかもしれない。

 これが死に際の夢じゃなければ。


 ぱさっと音がした。

 彼は手に持っていたコンビニの袋を床に落とした。

 しばらく二人で、首を吊ったわたしの身体を眺めていた。


 お世辞にも、きれいとも可愛いとも言えない。

 これがわたしだった。


 だって、ね。


 だらしなく口を開けた虚ろな表情。

 まあ、死顔なんだからそんなものか。


 涙もよだれも鼻水も、いろいろなものが出ちゃってる。

 あまり見たくないな。


 でも、なんだか。


 ふふふふふ。


 おかしな気持ちが込み上げてくる。

 こんな姿を見られるのは恥ずかしいのに。


 ふふふふふ。


 こんな自分を彼と眺めることになるなんて思わなかった。


 ふふふふふ。


 ……ざまあみろ。


 お前のせいだ。


 お前のせいでわたしはこうなった。


 この先一生、人を死に追いやった罪悪感を抱えて生きろ。


 どす黒い感情にのった嗤いがこみ上げてくる。


 その感情は、わたしを呑み込もうとしているみたいだ。


 彼の顔をひょいと覗き込んだ。


 その顔は恐怖におののき、後悔の念で苦しく歪んでいる。と、想像して。


 しかし……。


 意外にも彼は表情を変えてはいなかった。


 落としたコンビニの白い袋を拾うと、そのまま寝室に向かった。


 ウォークインクローゼットから大きめのスーツケースを取り出す。

 身の回りのものと、高級そうな腕時計や貴金属を詰め込みはじめた。


 どこに行こうというのか。


 どこにも行かせないよ?


 あなたはわたしとここにいるの。


 ずっと。ずっと。ずっと。ずっと。



 ホラー映画に登場する霊のように、彼の肩に後ろから両腕を絡ませてみた。しかし、身体を素通りしてスルリと抜けてしまう。


 あれ? 意外と難しい?


 こういうのは、慣れが必要なのかな?


 わたしが何度も挑戦している間にも、高そうな背広やアクセサリーなどを詰めている。


 これ以上荷物が入らないのを確認すると、スーツケースを持ってそのまま寝室を出た。


 玄関の扉を開けてもなお、わたしにも、吊り下がっているわたしの身体にも、一瞥いちべつもくれなかった。


 彼が出ていくときに、一緒についていこうとした。


 この男に取り憑いて、呪ってやるのだ。

 破滅するまで。破滅してからも。ずっと、ずっと。


 そのために、きっと、わたしはこうなった。


 ところが、わたしは玄関から外に出られなかった。


 まるで見えないガラスの壁があるように遮られる。

 部屋から出ることができない。


 パントマイムのように、両手で見えない壁をペタペタと確認する。


 彼はその間に出ていってしまった。 


 また、わたしを残して。




 






 寒い季節だったので、身体の腐敗はゆっくりと進んだ。


 窓は締め切られていたはずなのに、死臭を嗅ぎ付けたハエがどこからともなく現れて卵を産みつけた。


 しばらくすると、身体の重さに耐えきれなくなった首が千切れて飛んだ。


 首という支えを失って落ちた身体は、まずテーブルにぶつかった。それから床にゴトンという鈍くて大きな音を立てて落ちた。ほぼ同時に落ちた首は、身体よりも硬くて短い音がした。


 床に落ちた拍子に皮膚がべちょっと破れた。どろどろに溶けた、なにかだったものが床に流れていく。


 そのなにかだったものは黒くてねばねばとしていた。








 朝がきて、夜がきて、また朝がきた。


 




 わたしはその部屋から出られなかった。


 何度も試した。だが玄関はもちろん、窓からも出られない。


 見えないガラスの壁に邪魔をされている。


 ただ床に座って、わたしの身体だったものが黒く変わっていく様を見続けるしかなかった。


 部屋には黒い塊が飛び回り、そのふんで壁や床が汚れていく。


 匂いは感じなかった。


 






 


 窓の外に桜の花びらが舞ってくる季節に、ガチャンと音を立てて玄関の扉がひらいた。


 扉を開けたのは、彼ではなかった。


 見知らぬスーツ姿の若い男が一人と、制服姿の警察官が二人。


「うわっ!」


 黒い塊が一斉に玄関を目指すと、慌てて三人が扉を閉めて出ていった。


 

 それから小一時間ほどしただろうか。


 制服の警察官が何人も何人も部屋に入ってくる。


 それに混じって、刑事さんとおぼしき私服姿の数人がいた。女性もいる。


 ドラマでよく見る青い上着を着ている人たちもいる。


 彼らは床に横たわる塊に手を合わせた。


 あとは小説やドラマ、映画で見るようなシーンが続く。


 わたしは床に座りこんでその作業風景をじっと見ている。


 そして、わたしだったものをジッパーの付いた青い袋に詰めて運び出した。


 誰もわたしには気がついていないようだ。


 いや……そういえば。


 最初に入ってきたスーツ姿の男がいない。


 あの人とは、目が合ったかもしれない。







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