【第8夜】 用水路



 水の流れは早くて、足首まで浸る冷たさが気持ちよかった。



 あれは小学二年生の時のことだ。


 虫取り網を持って、川から水を引いている用水路の中に立っていた。

 季節は夏の始めだった。


 もし用水路をあのまま進んでいたら……。


 今、ここにはいなかったかもしれない――。




 今ではもう雑草が伸び放題になってしまっているが、実家の隣はかつては小さな田んぼだった。近くの川に造られた小型のダムから、用水路を通って田んぼに水が引かれていた。


 浅くて幅も狭いコンクリートの用水路だった。壁面にはタニシが張り付き、川から流されてきた小さな魚が泳いでいた。その魚を虫取り網で掬いに行ったのだ。 


 陽射しは強く、水面はその光を反射してキラキラと光っていた。


 用水路は歩道に沿っていたが、歩道よりもずいぶんと低い位置を流れていた。


 歩道と我が家への門の間には用水路があった。そのために用水路の上に土が盛られて、歩道と繋がれていた。門の左側は歩道に沿って、敷地と歩道を隔てる低い石垣が積まれている。その下で用水路は、長さ5メートルにも満たない短いトンネルとなっていた。


 トンネルを抜けた先は深い溜たまりになっている。そこから用水路は枝分かれをして、此処彼処そこかしこの田んぼに水が流れてゆく仕組みだった。


 この深い溜まりの上には鉄の柵が嵌め込まれていた。


 魚を追いかけるのにも飽きてしまい、ほかのことに注意を削がれた拍子に、虫取り網を水の中に落としてしまった。早い水の流れに乗って、あっという間に虫取り網はトンネルを抜けてしまう。その先にある溜まりの表面に、落ちた葉っぱなどと一緒にぷかりと浮いた。


 しまった……。あれはおにいの虫取り網だ。黙って借りてきたものだから、失くしたら怒られる――。


 そう思った私は、取り戻さなくてはという一心でトンネルの中に身を屈かがめて潜り込んだ。体格の小さな子どもなら、中腰になりさえすれば歩くことができる高さがあった。


 光が遮られたトンネルの中は暗かった。外が眩しかった分だけ余計にそう感じる。


 トンネルの天井は半円をえがき、破れかけたクモの巣に茶色い虫がたくさん引っ掛かっていた。横壁には乾いた泥や黒くて汚ならしい何かがへばりつき、小さな虫たちが這っている。


 ちょっと気持ち悪いな……。


 そう思って前を――トンネルの先を見ると――。


 鉄の柵をすり抜けた光は、いくつもの金色の線を引いたように溜まりに降り注いでいた。そこはやわらかな光に満ちていて、とても輝いて見える。その金色の光の中を二頭の蝶がひらひらと踊るように飛んでいた。黒と黄色の羽。アゲハ蝶だと思った。


 行かなくちゃ。


 なぜだか強くそう思い、さらに足を進めようとした。


 その時――


 後ろからトントントンと、軽く肩を叩かれた。指先で触れるような軽さだった。


 なに? 


 振り返っても誰もいない。田んぼの緑色の稲が風に揺れているだけだ。


 今、誰かに肩を……。


 途端にトンネルの中のひどく生臭いにおいが強く鼻についた。すると、高揚していた気持ちは驚くほど急に萎んでしまった。暗いトンネルの中の薄気味悪さに背筋がゾゾゾッと冷たくなった。慌てて明るい外へと這い出す。兄の虫取り網も、トンネルの先の金色の光やアゲハ蝶も、すでにもうどうでもよくなっていた。


 用水路に入る前に脱いだサンダルもそのままにして、裸足のままで家に飛んで帰った。


 サンダルも虫取り網も置いてきたのを「どうしたの?」と母に尋ねられる。正直に話すと、見たこともないような表情かおをされて、ぎゅっと強く抱き締められた。そのあとに、ひどく叱られた。絶対にトンネルの中に入ってはダメだと、何回も念を押された。


 兄にも軽いゲンコツをくらった。



 

 あのまま光に誘われてトンネルを進んでいたら……。


 思い出すと鳥肌が立つが、美しい光景だったことは間違いない。蝶が飛んでいると思ったのはなにかの見間違いだったのか。


 そして……。


 あの肩に触れた指先は、いったい誰のものだったのだろう。






              ✻ 了 ✻

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誰かのはなし 冬野ほたる @hotaru-winter

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