人形者
小鷹竹叢
1-5
1
彼女は物言わぬ人形が好きだった。中身が空っぽだからだ。それは人に似せられていながらも単なる物質であり、感情もなければ感覚もない。生きていなかった。だから好きだった。
人間には感受性という忌まわしい能力がある。何でもないものを見、それでもそれに何かを感じる。何もないものを見てそれから何かを感じるというのは、即ちその時それを通して見ているものとは、自分自身の内心だった。
それは正に鏡だった。生きていないのにも関わらず人の形をなして感情を催させる人形は、内心を映すのに打って付けだった。人形とは姿ではなく心を映す清明な鏡であった。
彼女は人形が好きだった。愛らしく綺麗なものに見えるからだ。
2
その日、彼女は午前の仕事を終えて昼食を取ろうとして少し困った。いつも一緒に食事をする同僚がことごとく出張や外回りでいなかった。人数を減らしていくオフィスに取り残される感覚に寂しさを覚え、社員食堂へ向かった。
適当な料理を陳列棚から取って会計を済ませ、トレイを持って席を探した。空いている席はほとんどなく、ふらふらと奥の方まで進んで行った。
薄暗い片隅に、一人しか付いていないテーブルがあった。仕方がなくそこで食べることにして、トレイをテーブルに置きながら先人に軽く挨拶をした。
挨拶を返すその先人には見覚えがあった。同じ課に所属している男だった。特に話をしたこともない。何か目立った所もなく、印象も残らない男だった。
二人しかいないテーブルで黙々と食べるのも居心地が悪く、これといった意味もない世間話をした。近頃ニュースサイトでよく見る遠い国の情勢の話だった。
戦争になるんでしょうか。どうなんでしょうね、何にせよ戦争にならないといいですよね。
当事者の事情も感情も、これまでの推移も何もかもを考慮しない表層的で漠然とした会話だった。当たり障りのない表面的なものだった。こちらの意見を言うこともなく、相手の価値観も窺えない無難なやり取りだった。
具体的な言葉などその日の退勤時には忘れてしまうようなものだった。だが、初めて腰を据えて話をして、彼女は彼について一つ思い出し、それから一つの発見をした。
彼にはこれといって親しい同僚がいるようには見えなかった。誰かと話をしている姿は稀で、思い返してみれば殆ど一人で過ごしていた。かと行って孤立しているわけではない。人に声を掛けられれば卒なく対応した。周囲に印象を与えることなく、自然と一人になっていた。
そして気付いたこととは、そうした処世術を反映しているかのように、彼の瞳には何も映ってはおらず、ガラス玉のようだったということだ。
彼の瞳には今話をしている私すらも映ってはいない。彼の内面は空虚だ。彼女にはそう感じられた。
楽しいこともなく、機知に富んだ言葉もなく、愛想以外の笑いもない、虚ろな会話は彼の食事とともに終わり、すっと立ち上がって去って行った。その素っ気なさは過ぎ去る時間のように実在性がなかった。
3
彼女は彼を目の端で追うようになっていた。姿は見える。一人で仕事をし、休憩も一人だ。しかし彼を一個の人間として捉えるのは難しく、気を抜くとその存在が霞のように消えてしまった。
仲の良い同僚達との交流の最中でも、視線は向けていなくとも、意識は彼へと向けていた。彼というものを捉えようとした。
しかしその行為が実ることはなかった。彼は虚無だからだ。
そして彼はたまの残業がある他には定時にオフィスを出た。誰を誘うわけでもなく、誰かに誘われるわけでもなく、仕事が終わってからの付き合いはなかった。あくまでも一人。自分から誰かに何かを与えることはなかった。
一方で彼女はしばしば同僚と夕食へ行った。小洒落た店に飲みにも行った。こうした付き合いは煩わしかった。人間関係の
酒で体を火照らせて彼女はマンションへ帰った。高層マンションの中層。経済的な成功を収めている父が、彼女の自立にあたって買い与えたものだ。
シャワーを浴びて赤らんだ体にガウンを羽織り、冷蔵庫から冷やしたミネラルウォーターを取り出してグラスに注いだ。
リビングへ行くとふっとショーケースが目に入った。グラスをテーブルに置いてケースまで歩み寄った。
中央に飾ったお気に入りのビスクドールがこちらを見返していた。それは色気を滲ませていた。これまではただ綺麗で、愛らしく、誰からも好かれるような稚けなさを浮かべていたのにも関わらず。それは艶めき、油のような光を照り返していた。
彼女はグラスの水をシンクに捨て、赤ん坊の肌のような薔薇色のワインを注いだ。ベッドルームへ持ち込んで、静かに体に流し込むだけのつもりだった。
夜中、目が覚めてトイレに行った。その帰りにリビングを通り、やや恐れるようにショーケースを覗き込んだ。
人形の容貌は変わることなく、それでも淫靡に歪んでいた。
4
彼女は機会を見付けては彼に話し掛けるようになった。どうでもいい書類の作成にあたって軽い相談をし、仲間との談笑の際に彼が傍を通り過ぎると声を掛けた。
少し、あからさまだったかも知れない。同僚はすぐに彼女の好意に気付いた。バーのカウンターで彼女を挟み、カクテルグラスを傾けながら彼とのことを詮索した。彼女の柔らかく繊細な感情は、ちょうどいい酒の肴になった。
他人の恋愛ほど面白いものはない。愉快でありながらも、自分のもののように身を焦がすことはない。芝居のようなものだった。興味深い見世物だった。
翌日、彼女が彼に声を掛けると同僚はそれとなく口数を少なくし、二人の成り行きを観賞した。彼女は恋心を秘める女の役を上手く演じて披露した。
彼は如才なく話相手の役を演じた。孤独を愛する男のようには見えなかった。ごくごく普通の、孤立しているわけでもなければ人々の中心に立つ人間でもない、どこにでもいるその他大勢の人間に見えた。
しかし彼女だけは楽し気に話す彼の目には如何なる心情も映らずに、ただひたすらに透き通っているのが見えていた。
自分で鼻に掛けることは決してないが、彼女は美しいと言われる側の人間だった。容姿にだけ惹かれる男も大勢いた。自分が声を掛けて喜ばない男はいなかった。それを自慢に思ったことはない。当たり前のことだったからだ。
それなのに目の前の男は雰囲気こそ楽しそうにしているものの、一切の感情を動かしてはいなかった。彼の瞳は変わらずガラス玉のように空虚だった。
身体の機能として彼女の姿は見えていた。それでもそれはパソコンのモニターを見ているのと同じことで、目に映ってはいても彼女を見てはいなかった。
切っ掛けを作り二人で食事に行ったこともあった。その時には少し込み入った話もした。それでも彼の話すこれまでの人生は、余りにも平凡で特色がなかった。個性というような、彼独自の固有のものなどなかった。
きっと嘘は吐いていないだろう。わざと隠しているのでもないだろう。淡々として過ぎ去った過去に感動がなかった。彼の中には何もなかった。いわば彼には過去がなかった。
現在にだけ存在しており、そして今を反映する心もなかった。彼の平凡さはその異質さから来るものだった。
そんな無意味な会話をしていても彼女はつまらなさを感じることはなかった。よくある話、ありきたりな返事、実のないエピソード。一個人としての人格を持たないように感じられる彼に、その平凡さに、無色さに、彼女は心を寄せられた。
彼は肉体という物質だけで作られており、内面がなかった。心や思考を人間の存在とするならば、彼は生きてはいなかった。
彼が空疎であればあるほど、彼女には彼が美しく綺麗に見えて行った。
5
人の形をなしながら、そして人間として生きていながら、それでも生きてはいない彼を彼女ははっきりと愛するようになった。
彼女には彼が愛らしく綺麗に見えるからだ。
彼と相対していると、その身体の内に充満する霧のような気体に自分の影が映っているのが見えるかのようだった。その影を見て、彼女は彼を素敵な相手であると思うようになった。
職場に一人、嫌な性格をしている人がいた。粗雑で思い遣りがなくしばしば他人の陰口を言っていた。その人物は彼のことを嫌っていた。
きっとそうであろう、と彼との付き合い始めた彼女は納得した。何故なら彼は鏡だからだ。よくない性格の者が彼を見れば、彼はよくない性格に見えた。心根が歪んだ人物が見れば、彼は歪んだ人物に見えた。正直な者が見れば正直に見えた。清らかな人が見れば清らかに、素晴らしい人が見れば素晴らしく見えた。
彼は個を持っていないがゆえに相手を映す鏡だった。
彼女は彼を愛し始めた。愛らしく綺麗に見えるからだ。
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