忘れられなく

水月 梨沙

時は、今より千八百年程前。

戦乱の世にあっては『約束』など、交わすだけ虚しくなるもの。

同様に、生きる事ですら。ともすれば投げ出したくなる時代において。

俺――夏侯威という――は、兄上の傍らにて卓へと向かっていた。


「俺は、救われたのだ」

兄上の眼差しは、遠い昔――かつての戦場を見ていた。

俺は『二人』が会話した場所に直接居合わせた訳では無いが、すぐに兄上は俺の所へ来て『何を言われたか』を話してくれた。

だから、その時の事を想像する事は出来る。



戦で友を亡くした兄上。

友との親交は長く、その時も『共に生き残ろう』と約束していた。

それが破られる事も、戦の中では『仕方の無い事』……。

そうと判っていても、ずっと自分を責め続けていた兄上の心情に気付いたのが、仲達殿だった。

 


「良いのだよ」

不意に、仲達殿は話し出したのだそうだ。

そして兄上に向けて、こう言った。

「確かに、友人を助けられなかったと悔やむ気持ちは……私にも、判る」

それでも、と兄上の顔を見て。

「貴方が生きる希望を無くして死んでしまったら、誰が二人の約束を覚えているだろう?」

しっかりと、仲達殿は言ったのだ。

「二人で生きる事は、確かに無理だった。だからと言って、友人と話していた時に……貴方は、二人が死ぬという未来を想像して会話をしていたのか?」

兄上は、その言葉にハッとした。

「逆に考えてみて欲しい。もしも貴方の友人が生きていて、貴方の為に死のうとしていたとしたら。貴方は、その友人に何を思う?」

そして仲達殿は繰り返した。

「だから、良いのだよ」

まるで、兄上が何を言われれば救われるかを理解していたかの様に。

「二人が揃って死んだ訳では無いのだ。ここに『約束』を覚えている、『貴方』が生き残ったのだから」

だから貴方の友人は、貴方の様に悲しまないで済んだ。

それは、貴方の功績だからと――兄上は、仲達殿に言われたのだった。


その時の言葉で兄上は、自分が『生きる』事を真剣に考える様になった。

そして俺達兄弟は、彼の言葉から感銘を受けて『何があっても生きよう』と約束した。

兄上を救ってくれた仲達殿は、俺にとっても恩人だったから。その人が『生きる事』を『約束を途絶えさせない手段』だと言うのなら、例え家族と別れる事になろうと生きてやる、と誓った。


だから『大切な従妹を掠い、更には父の仇にもなった国だ』と切歯扼腕して常に仕返しをしたいと願っていた憎い『蜀』への亡命をも、俺達は決意したのだ。

そう、全ては『生きる』為に。

 


忌むべき国、蜀での生活。

その中でも堪えられたのは、やはり『仲達殿の言葉』が胸の中にあったから。

何よりも『生きる』事を優先させて考えたからだった。



卓へと視線を向け、ぼそりと兄上が呟く。

「……大切な事でも忘れてしまったりする輩がいるのに。どうしても忘れられない人がいるというのは……」

そこで兄上は、言葉を詰まらせた。


友と過ごした故郷を離れ、憎き国に身を寄せて。

それでも一番辛い顔を見せるのは……現状を嘆く時では無く、こうして昔を思い出す時。


苦しんでいる様子は痛々しいが――もしかしたら俺も、今は同じ様な顔をしているのかもしれない。


仲達殿を恩人と思う気持ちは……俺も、同じ。

記念日なんて覚えた事も無いのに、どうしても忘れられない日があるのも……兄上と、一緒。


どうしても。

忘れられ無く。


この日が来ると、とても胸が苦しくなるのだ。


だけど。

忘れてしまって悲しみが来ないよりも。

こうして、ずっと覚えていたいと願ってしまうのは……

故人を忘れて笑うよりも良いからだと。

故人になって悲しませるよりも良いからだと。

俺達は、感じている。


「今も耳に残る、あの言葉」

力の無い笑みを浮かべ、兄上は続けた。

「戦の中で、何度勇気付けられただろう」


瞳を閉じた兄上からは、透明な雫が零れ落ちた。


 

「結局、俺は……こうして、生きているが。戦以外でも、人は死ぬのだよな……」

『寿命』という名の槍により貫かれた者は、例え戦地から退いていたとしても亡くなってしまう。

ましてや七十を過ぎてなお生きていたというのは、一体どれだけ槍を防ぐ為に奮闘していたのだろう?

俺には、想像もつかない。



今日は、仲達殿の命日――……



様々な事が頭を過ぎり。

思い出に胸を痛め。

忘れられ無く。

ただ、泣く。



それでも……生きよう、兄上。

どちらかが欠けてしまったとしても。


『生きる』事こそ生まれた以上は交わされた、出会った相手との『約束』なのだと――俺達は、気付いたのだから。

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