幸せな竪琴奏者
小狸
第零話
*
別段その時分に、何かがあった、ということはない。
気が付いた
何となく今までの情報を複合して、己が他者の定義する「普通」の領域から逸脱していると分かってしまった。
そのふとした記憶の統合が、偶発的に二十六歳の夏のさる日に訪れた――という。
ただそれだけのことである。
難しい言葉で並べて、
何をしようにも、人よりも時間を必要とする。
何をしようにも、人とは違う方向を向いてしまう。
何をしようにも、人と同じように活動することを第一に考え、目的を忘れる。
当初傘華は、誰しもがそうやって、己を是正して生きていると信じて疑わなかった。
誰しもが自身というものを極限まで凝縮し、無力化し、抑圧し、無理と無茶を重ね着して、生きたくもないこの理不尽で不条理な世の中を、嫌々生きていると思っていたからだ。
実際――そういう面があることも否定できまい。
例えば大人たちは、子どもに対して「社会は大変だ」とか「社会は辛い」とかを、口が酸性になるほどに言ってきていた。「社会」という実態のないものに「苦労」「苦痛」という個葉を勝手に付与し、それを子どもたちに対して押し付けてきた。
大人という大義名分を使って。
少なくとも傘華の周囲の大人は、そうであった。
だからこそ傘華は、生きるとはそういうものなのだ、と得心した。
ここが、己の分水嶺だったのだろうと、後から傘華は思う。
普通は、理不尽や不条理に衝突すれば、少なからず反発、反抗するものだ。
いくら社会が地獄のようだったとしても、それを甘受する必要はないのである。
逃げ道はいくらでもあった。
しかし傘華は、それを選ばなかった。選べなかった。
大人たちの言葉を、真に受けてしまった。
そういう性質を、漫画やアニメなどでは「純粋」「純朴」などと表記されるのだろうが、冗談が通用しないという意味では、むしろ病状に近いだろう。
だから、そういう生き方を選んだ。
辛いことも、苦しいことも、きついことも、しんどいことも、無理も、無茶も――そんな中でもがき、あがくことによって、全ては自分に返って来ると、自分のためになると信じて疑わなかった。
――が。
そんな都合の良い世の中であれば、世はもっと幸せに溢れている。
大人たちの言葉は、ある意味では正解である。
この世は、地獄である。
しかし一つだけ、傘華は、失念していた。
それは大人たちが彼女に、敢えて言わなかったことでもあった。
それは――努力は、必ず報われるわけではないということだ。
頑張ったことの成果が、精進したことの意味が、培ったことの養分が、必ずしも役に立つわけではないという、比類なき現実であった。
自ら不幸を、苦渋を、重荷を、背負う道を歩むようなものである――無軌道な生き方だった。そしてそれを止める人間は、傘華の周囲にはいなかった。
いや、ひょっとしたらしたのかもしれない。
傘華のあまりに自罰的な生存方法に対して、端を発する心優しき人も、いたかもしれない。
ただ、その言葉は、傘華の頭には届かなかっただろう。
その辺りの記憶は
仕方のないことだ。
彼女はその頃、生きること、社会に奉仕することに必死であったのだから。
実際。
傘華のそんな生き方が社会で通用するはずもなかった。
社会で通用する――という文言も、傘華のような心の内に異常を抱える人間にとっては、喉から手が出ても欲しい言葉だろう。
ただ、それは蜃気楼のように、手に収まるものではなかった。
一年、 保った。
そして、限界が来た。
保ったというだけで、もう奇跡のようなものであろう。
定職に就いて一年後、彼女は精神病を患い、職を辞することになった。
傘華の、会社での人間関係も、もう悲惨と言って良い程駄目であった。
上手くやろう、やろうとすれば――それだけ失敗する。
そして当の本人はその「失敗」を、自分の糧になると勘違いしているのである。
それは
誰一人として、彼女の辞職に何かを言う者はいなかった。
どこにも協調することができず、誰とも同調することができず。
傘華は仕事を辞めた。
そこからの生活は、地獄のようなものであった。
彼女が患った精神病は、統合失調症というものであった。
貯金は底をついた。
生活保護を、受給することになった。
その辺りの手続きは、比較的楽に通った。
統合失調症であること、障害者手帳を交付されたこと、職業の継続ができないこと等の理由から、何とか、生きることができた。
そんな状態であっても、両親は厳しかった――というか、傘華をそんな風にしたのが、当の両親であったからだ。
傘華は一人暮らしをしていたけれど、実家に帰ることはほとんどなかった。
その代わりに、週に一度、両親からの連絡がかかってくるのであった。
父は介護職のケアマネージャー、母は特別支援学級の介添員のパートをしている。
一見すると、傘華の病状へ理解がありそうにも見えるかもしれない。
そう上手くいくことがないのが現実であり、また傘華の人生でもある。
彼らは、電話口で、傘華をこっぴどく糾弾した。
ちゃんとしろ、心の病気など気の迷いだろう、どうして相談なしに勝手に仕事を辞めた、などと、かなり厳しく言われた。
彼女の両親は、障害や老化によってハンディを負った人々と相対する仕事に就いていた。
だからこそ、見た目健常者と遜色ない傘華に対して、必要以上に厳しく当たった。
心の病気に対して、彼らは寛容ではなかったのである。
傘華はメンタルクリニックに通院していた――救いといえばこれが唯一の救いなのだろう。
大量の薬を服用しながら、生活保護を受けながら――これだけでも極限状態であるのに変わりはないというのに、両親や周囲の人からの理解を得られなかった。
交際者は、作ってはいけないと思っていた。
自分のような社会不適合者が、誰かと交際すれば、その人を確実に不幸にしてしまうだろうと、無意識的に思っていたからだ。
誰が好き好んで精神疾患持ちと交際したいと思うだろうか。
自分は余り物で――例外で――除外されるべき――そんな自己加害的意識が、徐々に健在化してきていた。
そして――こうも思った。
どうして、この世には幸せな人間が存在するのだろう、と。
自分がここまで不幸を
羨ましい。
妬ましい。
――ずるい。
こうして下鳥傘華は、崩壊の一途を辿ってゆく。
そんな彼女が、己の異常性を自覚したのが――。
うだるような暑さの残る、
(続)
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