第40話 堕ちる天使
目が覚めると、既にあたりは暗く、窓から車のヘッドライトが入っては遠のき、また入っては部屋が明るくなった。腕を伸ばしても隣は冷たかった。耳を澄ませると、階下から包丁の音がする。話し声も聞こえるからきっとイザヤと慎之介が下で夕飯の支度をしているのだろう。
それにしてもひどい3ヶ月だった。最初は呼ばれていた叙聖式の地震で中国のやたらほこりっぽい山奥に行き、ひとしきり天に魂を送還するのを手伝うと、中東の方で人手が足りないと言われて手伝いに行き(ここでは年がら年中人が殺しあっていて忙しく、オーバーワークのエルサレムの教区長が職場を放棄してモルディブにバカンスに行ってしまった)その後は東欧で洪水が起こりそっちに駆り出され、最後にはモスクワの本部に呼ばれて次の昇聖の話しが来た。目指している評議員の地位まではまだ先はあるが、ウラジオストックでの働きが認められたと胸を張れる喜ばしい知らせだった。そして、これからは現在極東を見ている大天使の一人となり、また救える命が増えるということだ。
その為により多くを天に召すことになると思うと、これまで感じたことのない、鉛を飲み込んだような不快感と違和感を感じた。だが、それも一瞬で、申請していた異動が承認されると、久しぶりに天を仰いで喜びたくなった。晴れて函館の教会を拠点とすることになった。これで大手を振ってイザヤを守護することができる。何しろ、イザヤは函館の教区長で自分は函館の守護天使なのだから。
モスクワからの帰り道に立ち寄ったウラジオストックにはまだ自分の生家があったが何のためらいもなく処分した。
生前の記憶は、あの街の金持ちの男や女たちの慰み者になり、ひどく痛めつけられたり辱められたりしたことと、そんな自分の存在をなかったことにした妹のことぐらいだ。人はあんなにも無慈悲になれる。それは発見でもあり、それまでの自分の見ていた世界が全く姿を変えた瞬間でもあった。
何も感じなくなった心がもたらしたものは平穏だった。自分はそれが気に入ったし、自分を叙聖したニコライも喜んでいた。自分の進んでいる道が正しいとこんなにも確信をして進んで来た。上を目指し、力が備われば救済できることが増え自分と同じような辛い目に会う人間が減るはずだった。少なくともそう信じてきた。
***
「関口ミハイル健吾、お前は間もなく天に召される。その前に1つだけ願いをかなえてやろう。」
あの時、自分はすでに病が進み視力はおろか、まともに思考する力さえ失いかけていた。皮膚は爛れ、潰れた水疱から膿が出ては悪臭を放ち、屋敷の片隅で誰も近寄りすらしなかった。
なのに突然枕元に現れたニコライは自分を抱き上げた。額にキスをすると皮膚の爛れは瞬く間にきれいに治り、瞼にキスをするとそれまでぼんやりとした明るさしか見えなかった世界が霧が晴れたようにその世界を映しだした。視界に飛び込んで来たはしばみ色に緑が入った美しい瞳をしたその男の背には大きく力強い翼が見えた。
自分はきっと死んだのだと思ったが、次の瞬間ニコライは愉し気な声で、落ちるなよと言い、気づけば空から浦塩の街を見下ろしていた。
久しぶりに見た空は青く冴えわたり、柔らかな風にそよぐ木々は瑞々しく輝いていた。ひっきりなしに船が出入りする港の賑わいに自分の生まれた街はこんなにも美しい街だったのかと感動すら覚えた。
「あすこに見える黄色い壁の建物がお前がいた屋敷だ。その向こうにある水色の壁が、お前の身体のあちこちに穴を開けた男、その並びの小さい白い屋敷がお前の爪をはいだ女がいる。あっちの奥にみえる赤いレンガが娼館で、お前の病の元凶だ。」
ニコライは、さあどうする?とでも言いたげにこちらを見下ろしたが、もはやそんなことに興味はなかったので、妹の様子を見に行きたいと伝えた。
あの時、もし妹が悲惨な目にあっていれば自分の胸がすく思いをしたのだろうか。自分が文字通り身体をはって養った妹は、兄が男娼とは体裁が悪いと言って、兄はとうの昔に亡くなったと婚家に話していた。最後にあった時には、自分の前に二度と現れてくれるなとためらいの欠片もみせずに言い放った。
だが、想像に反して、窓辺に見えた優しい笑顔を浮かべた妹は、かわいらしい子供たちに囲まれ、夫婦仲も良さそうで幸せに暮らしていた。
きっと妹は自分のことを思い出すことすらないだろう。こんな汚らしい兄はいたところで彼女の清潔で心地良い生活にインクを垂らすようなものだ。ほんの一瞬でも彼女の不幸を願った自分を恥じた。結局、これまでの全てがあって妹は幸せになったのだ。
「ああ、よかった…」
そう呟いた瞬間、力が抜けた。最後に人に抱きしめられたのはいつだっただろう。
ニコライの腕の中は温かくて気持ちがよく、そのまま目を閉じた。久しぶりに見た光が眩しかったせいか、涙が一筋零れたのを感じた。
自分には、もう思い残すことは何もなかった。
***
「ミーシャ、夕飯だ。起きろ。」
どうも二度寝をしてしまったようだった。久しぶりに昔の夢を見た。
「良く寝てたな」
サイドテーブルの灯りを付けると、イザヤはベッドに腰をかけて、そっと髪を梳いてくれた。
「昔の夢をみた」
「へえ?どんな?」
「幸せな夢」
「…そうか。よかったな」
ライトに照らされているイザヤの顔は、初めて会った時より年をとっていた。人間にしたら15年はそれなりの歳月だ。この男が重ねた笑いが歳月をかけて目じりに笑い皺を刻んでいた。こちらを見る目も昔のように好奇心と使命感に振り回されているというよりも、好奇心と使命感を飼い慣らした穏やかな眼差しだった。無意識に彼の笑い皺に手を伸ばした。イザヤは触れられるまま、
「そろそろお腹すいただろ?今夜はあんたの好きなカレーだ」
それを聞いて、もう言葉を喉の奥に留め置くことはできなかった。
「愛してる」
これまでも寝る前にロシア語でつぶやいていたその言葉を、初めて相手に伝えたいと思い日本語で告げると、イザヤは目を細め知ってるよ、と言い、
「僕もカレーを愛してる」
思わず彼の頬の上にあった手で軽く頬を叩くと、イザヤは嬉しそうに笑いながら
「冷めるから早く降りてこい」
そう言ってさっさと階下に降りていった。
食卓に並ぶカレーとサラダ。
そして隣にイザヤとはす向かいに慎之介がいる。
それぞれにいただきます、と手を合わせて食べ始め、慎之介が明日こそ唐揚げがいいとイザヤに文句を言っている。どうやら、自分の急な帰宅で夕飯の献立が変更になったようだった。イザヤは明日こそ唐揚げにすると約束し、慎之介の作った味噌汁の切りきれていないわかめを食べながら、慎之介の作る味噌汁は美味しいと言った。
何故か、この空間がとても尊いと思った。別に特別なことは何もなくて、ただ二人の人間が一緒に食事をしているだけなのに。
「健吾さん、出張で何か面白い話しないの?お土産は?」
急な質問で答えに窮していると、
「慎之介、健吾は疲れてるんだからとりあえず食べさせてあげよう。ちなみに期末試験はどうだった?そろそろ答案帰って来てるんじゃないか?」
イザヤが助け舟を出してくれた。慎之介があわあわしているのをイザヤがからかうように、何か言っている。慎之介が助けを求めるようにこちらに何かを言っている。
自分を含めて死んでいく人間をたくさん見たし、そんな人間をみて涙する人間も沢山みた。人間の喜怒哀楽の連鎖の外に自分はいて、常に人間を見る目は冷静だった。連鎖の外にいることで、もう何にも苦しまずに、悲しむこともなく、だれとも関係をもたないことでわずらわしさからも解放された。
あの時、ニコライが自分を苦しみと悲しみから解放すると言って叙聖したが、今になってわかったのだ。悲しみや苦しみがないことと、幸せは別のものだ。きっとニコライもそれを知ってしまったから天使でいることをやめたのだろう。
そして自分も見つけた幸せを、もう手放すことなど考えられなくなっていた。
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