第32話 誕生
「何を笑っているんだ」
ニコライは病室のベッドの中からジト目でベッドの横に座って本を読んでいるアガタを見上げた。
「そうですね、あの頃と逆の立場になって何だかおかしいな、と」
あちこちに火傷をを負ったニコライは動く度に痛みに顔を歪めるものの、それさえ新鮮か感覚でニコライは自分がやはり人間になったのだと妙な感慨を覚えていた。
「自分が叙聖した天使に串刺しにされるとは思わなかった」
アガタはリンゴを剥きましょうか、と独り言ちながら、
「あの地獄の引力にかなうのは、神器の引力しかないでしょう?呑気に手なんてつないでいたらあなたは今頃地獄で悪魔とパーティーですよ。それに神器で心臓を貫かれたわけですから、あなたは完全に聖籍から抹消された。つまり地獄に行く天使という身分すら失って人間になるしかなかった。」
「何でそんなことを…」
「安心してください。あなたの為じゃありません。私なりの魂胆があるのです。」
「だが、お前も人間に堕ちているじゃないか。せっかく天使にしたのに」
「状況が変わったんです」
ニコライが訝しむと、
「子供を産むには実体のある人間にならないといけないんです。生まれる魂は既に私の中にある。後は入れ物である肉体が必要なのです」
リンゴの皮をするすると剥きながら、
「相手は誰でもいいと言えばだれでもいいと思ったのですが」
手の上で器用に切り分けながら、
「新たに相手を探すのが面倒だと思ったんです、それに目の前にあなたがいたし」
それを聞いたニコライは痛みもどこへやら飛び起きると、
「私の妻になってくれるのか?」
だがアガタは鼻で笑うと、
「相手としてあなたは丁度良いいだけで、あなたの妻になりたいかどうかは、また別の話しです。何しろ100年前にあなたは私たち親子を棄てているわけですから。」
ガックリうなだれるニコライを尻目に、皿にリンゴを盛ると、嫌なら他をあたりますのでご自由に、と続け、そのままはい、と一口大に切ったリンゴに爪楊枝を刺すと口元に持っていった。ニコライは何か考え込むように黙って口を開き、シャリシャリと咀嚼する。
「ところで、イザヤはどうした?」
「私の血縁者に回収をお願いしました。」
「それはピーターに言われて?」
「ええ」
「…実は私もピーターに頼まれて一人援軍を手配していた」
アガタもニコライも顔を見合わせた。ピーターはつくづく用意周到な男だった。
「ちなみにその援軍って?」
「ミーシャだ」
「よりによってあの男妾ですか?ウラジオストックの?」
「ひどい言いぐさだな」
「あの男は、あなただけじゃなくて坊ちゃんにまで手を出した」
「あれはただ三人で楽しんだだけだ」
「お黙りなさい。それ以上聞きたくありません」
「聞いたのはそっちじゃないか」
「ああ、うるさい。もう黙って」
アガタは、残りのリンゴを口に放り込むと食器を片付け始めた。
「私はそろそろ失礼します。イザヤの様子が気になるので、ちょっと見てきます」
「あの寺か」
「そうです、あの寺ですよ」
「あそこに何度も探しに行ったのにお前には会えなかった」
「あなたと一緒になったことで、あの家には生前戻ることが叶わなかったんです。まったく人の苦労も知らないで」
洗面台で皿を洗いながら言うアガタに、
「だが、お前の墓はあったぞ。私達の作之介と一緒に」
ニコライの言葉に、皿を拭き上げるアガタの手が止まった。
「毎年様子を見にいく時には花を供えたが…アガタ?」
反応がないアガタに気付いたニコライが彼女の後ろ姿を見ると、ニコライはゆっくりベッドから出て、無言のアガタの背後に立ち、恐る恐る声をかけた。
「アガタ?」
そして、言葉を探しながら、
「もし、嘆きの壁が欲しければ私がなるから」
「…何のことですか?」
「あー、何というか、私はここにいるということだ」
「そんなこと分かっています」
「ちがう、私が言いたいのは、お前が泣くのを見るのは私だけだといい」
「それはつまり?」
「うーん、お前の喜びも悲しみも全部私の物になったらいい」
「ニコライ、あなた一体何が言いたいんですか?」
アガタはまだ振り向かない。
「毎年お花を供えていたのはあなただったんですね。どういうつもりだったんですか?」
「ただ、お前たちに会いたいと思った」
「だったらなぜ、トマスを私の元に寄越したんですか?本気であの子が私たちの息子の代わりになるとでも思ったんですか?」
「それは違う、子供が亡くなったことは教会から聞いていた。だからお前がひどく落ち込んでいることも想像できたし、函館での仕事が終わった私には、お前の傍にいてやることができないから、何とか方法を考えた」
「それが身代わりの子供だったと?子供は替えのきく人形じゃないんですよ?」
「だから、そうじゃない!」
侮蔑に怒りを込めたようなアガタの物言いに、何故こうも伝わらないのかと苛立ちを隠せないニコライが被せるように言った。
「お前がセリョージャの世話をしていたのを私は知っている。彼を育てたのはお前といってもいい程、お前は献身的にあの悪童を立派に育てた。それはお前にとっても癒しになっていたし、育てることに喜びを感じていた。
だから、私はお前に喜びを与えることはできなかったけれど、子供を養育することで、少しでもお前に幸せになってほしいと思ったのだ。人は孤独に弱いから、あの子供がお前に支えになってくれればいいと思ったのだ、お前の側にいられない私の代わりに。それは決して私達の作之介の代わりではない」
ニコライは聖籍を返上したせいか、自分の感情をそのまま言葉に紡いだ。
「あなたは、函館を離れたはずなのに、どうしてセリョージャのことを知っているのですか?まさか彼もあなたの手先だった?」
「そうではない!」
「じゃあ知った風な口をきくのはやめてください。」
「私は自分が見聞きしたことを言っているだけだ!」
「何ですって?」
「だから、私がこの目で見たのだと言っている。」
叫ぶように言い返すニコライは、自分の声量に驚いたように口をつぐんだ。そして、咳払いをして、
「お前がセリョージャに読み書きや計算を教え、喧嘩をいさめたり、彼がどこかの家の庭先で鉢植えを割ればお前が彼を伴って謝罪に行っていた。彼の好物のぜんざいを作ってやったり、本を読んで聞かせたり。正月にはお年玉だってあげていたし、自分の信仰とは異なるのに、聖歌だって教えていた。これは全部私がこの目でみたことだ。相違ないだろう?
セリョージャはあれで根は素直な子供だったから、お前の誠意をちゃんと理解していたし、愛情だってちゃんと受け取っていた。だから、あんな青年になったんだ。知っているか?あいつはモスクワで勉学を修めた後、あの出自で下級とはいえ官僚になった。田舎貴族の娘を妻にしてモスクワを離れた後は、領地に入り領民に愛され、たくさんの子供にも恵まれてとても幸せに過ごした。あれは、領民の子供の為の手習い所を作っていたぞ。誰かの真似事をしていたのだな。
お前は人を愛することを知っている。そんな人間が愛されないことに耐えられるわけがないのだ。だからお前は全てに関心をもたぬように自分を律していた。そうやって心の平穏を保っていたのだ。違うか?」
ニコライはまだ言い足りない、とふっと息を継ぐと、
「私はもうお前の傍から離れない。お前が嫌というまでずっとだ。嫌になったら、今度はお前が私を棄てればいい…いや、そんなことはいやだな。だめだ、お前が棄てたくならないように、私はあらゆる手段を講じるから。だから、私をお前のそばに置いてくれ。今お前と私の間にあるこの距離だって邪魔なくらいお前と供に在りたいのだ」
それを聞いたアガタはゆっくり振り返った。
「私の希望も聞かずに私を天使に叙聖して、私の希望も聞かずに自分の希望ばかり押し付けてくる。あなたは本当に勝手な人ですね。
そんなに私のことを見ていたのなら、どうして生きている時に会いに来てくれなかったのですか?私がどれだけあなたに会いたかったか、それは見えなかったんですか?
どうして何も言わないで置いていったのに、どうしてそんなに私を見守っていたのですか?」
積もりに積もった怒りに歯を食いしばりながらニコライを詰り、ぼろぼろと涙を流す様を見て、ニコライはそっと指で涙を拭った。
「私達が出会うよりももっと前に私は極東を任された。監視がないのをいいことに私は心の赴くままに時を過ごした。ピーターやミーシャとつるんだのもそうだ。私の仕事の一つに小夜子を守護することがあったたが、私よりもはるかに有能な守護がついていた、お前だ。
当初は頑強な人間と思っていたが、小夜子が死んでからお前の魂がどんどん弱ってしまい、死んでしまうのではないかとハラハラしたよ。とうとう自分を抑えられなくて、涙を流すお前に声をかけた。そこからはお前も知っているとおりだ。私はお前を愛することに夢中になった。
「だが、まんまと小夜子にバラされて、芋づる式に上層部に諸々悪事がバレて本国で禁足された。それからは、何とか監視の天使を買収してお前に会えないかと抜け出しては函館に来てみたが、お前の姿を見つけることができなかった。お前の生命の気配が全く感じられなくなってからは、唯一あの墓が手がかりだった。もしかしたら会えるのではないかとどこかで期待していたのだ」
「自分のお墓に行く人なんていませんよ。」
「それもそうだな。私は愚かだ」
「もう一度言ってください」
「私は愚かだ」
「そこではなくて」
「愛している、もう何があってもお前達から離れない。だから、どうか私をお前の夫にしてくれ」
「死が二人を別つまで、ということですか?」
「私が先に死んだら、お前を迎えに行くまで使徒として残るよ」
「死しても別れないつもりですか?欲張りな人ですね」
「ふざけないで、おきぬ。答えは?」
「С удовольствием」
そう言ってニコライのやけどをいたわるようにそっと抱きしめた。
「早く傷を治してください。私そんなに気が長い方ではないんです」
「100年も私を待っていたのに?」
「それはお互い様でしょう?」
アガタはゆっくり彼の胸元に耳をつけてじっと彼の心音を聞いていた。
「ちゃんと心臓が脈打ってる。あなた本当に人間になったんですね」
何かを言おうと身じろぎしたニコライに、
「コーリャ静かに。あと10秒でいいから」
あなたは、生まれ変わった。そう囁かれたニコライは、痛みを忘れる程の幸せに、人間になるのも悪くないものだと思った。
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