第24話 冬空
今思えば、あの瞳に吸い込まれるような感覚は、人ならざるものだった証だ。私の魂はまんまと奪われてしまったのだから。
気づいたら私は彼の腕の中で眠るようになり、何なら子まで授かった。最初に妾に勘違いされ泣いて怒った自分が今の私を見たら憤死するだろう。ニコライとの生活は人に喜んでもらいたいという私の欲求を久しぶりに満たしてくれた。こんなのは小夜子との生活以来だ。気づけば日々私を苛んでいた小夜子を救えなかったという罪悪感はすっかり影を潜めていた。
不思議なことにニコライと暮らすことに周囲は誰も異議を唱えず、警戒心の強い祐之進さえ喜んでくれた。私が任されていた菓子舗はロシア菓子を製造して問屋に卸しており、販売も祐之進の伝手で順調に販路を広げていた。
赤ん坊はニコライと同じ明るいハシバミ色に緑が散った美しい瞳をしていた。だが2歳になる頃に夏風邪をこじらせ、あっという間に天に召した。周りは私を慰めるように、決して珍しいことではないと口々に言った、神様に愛され過ぎたのだとも。ニコライはその一ヶ月ほど前に本国に出張で出発していたので、家は急に息苦しいほどの静寂に包まれた。
祐之進が心配して頻繁に様子を見に来てくれた。私を奮い立たせるように仕事を詰め込み、あの時期の記憶は正直朧げだ。ただ日々が過ぎていくのを何も感じないまま、ひたすら手を動かしていた。ニコライが帰って来る日を待ちながら、私は何も考えずに働いた。
更に3ヶ月ほどたった夏の終わりに、私はいつものようにイワン達と情報交換の為に領事館を訪ねたが、その日2人は珍しく並んで勝手口に立っていて、私の姿を認めるとやおら腕を掴んで礼拝堂の裏の人気のないところに連れてきた。イワンは開口一番、
「おきぬ、ニコライはもう戻ってこない」
それがなぜなのかはイワンは答えてくれなかったが、セルゲイが横で足元を見なながら船が沈んだんだと呟いた。だがどうしてか、私はこのかつての悪童が私を慮って嘘をついてくれていることがすぐに分かってしまった。
ああ、時がずいぶん経ったんだなと思った。私の胸元にも届かなかった少年を今や私の方が見上げているし、かつてクマのように大きく豪快に笑った男も膝の古傷が痛むと杖をつくようになっていた。
ニコライはきっとこの空の下のどこかで生きているのだろう。本国で妻を娶り家族を作っているのだろうか。あまりにもありきたりで驚きもしない。自分でもこの結末はわかっていたはずなのに、何故私はこんなに空虚なのだろう。そして、何故、何も感じないのだろう。私は夫と子供を、生きるよすがを失ってしまったのに涙の一滴も出なかった。
心配した面持ちで私を窺うセルゲイとイワンに笑顔を作り、知らせてくれた礼を言うと、次回は私の家に二人で遊びに来るように伝えた。二人とも私の意図を汲んでくれて、冬の前に必ず尋ねると約束した。
***
その冬、来年の春になったらセルゲイが勉強の為に本国に帰国することになり面倒を見てきたイワンも一緒に帰ることになったと聞かされた。
「セリョージャがこんなに優秀な若者になるなんて誰が想像したでしょう」
彼がほんの少年で、私に散々悪態をついた日が昨日のように思い出されるのに。あの頃丸かった頬は今や青年のそれになりかけていて、思春期を迎えると彼はそれまでとは人が変わったかのように内気で控えめな若者になった。ほうじ茶を飲みながらわざとらしく言うと、本人は頭を掻きながら
「おきぬさんに読み書きを習ったおかげです。」
セルゲイとは初対面はあまり平和的なものではなかったが、その後はかわいいもので、ロシア語が不自由な私の後についてまわっては頼んでもいないのに通訳をかって出てくれたし、街にでれば私が彼のお使いを手伝ってやる良き友人になった。イワンも昼間の空いた時間にうちに彼が手伝いに来ることを承知していたし、私の仕事の合間にセルゲイに読み書きと計算を教えていることを知ると、泣いて感謝された。イワン自身、読み書きが怪しく苦労したので、年若いセルゲイの将来を案じていたのだろう。ちなみにセルゲイはイワンの子供ではなく、来日する宣教師団がウラジオストックで拾った孤児だったそうだ。教会の小間使いにでもと周囲は考えたが、あまりにもけんかっ早く落ち着きがないので、領事館内において腕力では負け知らずなイワンの元に預けられたとのことだった。
「おきぬに見てもらうようになってこいつはずいぶん落ち着いた。道まで拓いてもらったんだから、あんたは彼の天使だな。」
そう言ってイワンはウィンクした。
「それを言ったら、あなたは私に菓子作りを教えてくれました。おかげで不自由なく暮らせています。だからあなたは私の天使ですね。」
そのやりとりを聞いていたセルゲイはばつが悪そうに視線を窓の方にやった。すると、イワンが杖でセルゲイをつつきながら、
「お前がいたから、俺はちゃんと仕事を全うできた。お前がいなかったら、きっと俺は飲んだくれてその辺で野垂れ死んでただろうよ。お前は天からの贈り物だ。」
そう言ってイワンは笑い、セルゲイもほっとしたようにイワンに微笑んだ。
きっと、誰もが誰かの天使なのだろう。目の前の彼らは私の天使だったし、死んでしまった作之介も、あのニコライさえもそうであったと今なら思える。そして、私にたくさんのものを与えてくれた天使たちがここを去っていく。
もう、何もいらない。もはや私の心は喜びも悲しみも感じることができなくなり、与えられた分だけ、喪失を抱えることにすっかり疲れてしまった。あとは、私が他人に与え切って空っぽになり無に帰ればいい、そんな事をぼんやり思うのだった。
こうして私はとても後ろ向きな理由で死が来るまで生きることにした。そして神は早々に私の本気を試しに来た。
本当に容赦がなくて閉口した。
※※※
それは嵐とともにやって来た。もしかすると彼自身が嵐だったのかもしれない。
夕暮れ時に天気が西の方から崩れるのが見えた。港の向こうにひどく重苦しい雪雲がみえた。今晩は吹雪くかもしれない、と足早に客先から家路を急いだ。
読み通り、風が吹き始め窓の方から冷気が流れてくるのでカーテンを開けると、既に大粒の雪が降り始めていた。このあたりはそんなに雪深い土地ではないけれど、それでも今夜は積もりそうだ、そう思いながら夕飯の支度を始めた時、外側から激しく門戸を叩く音がした。慌てて出ると、そこにはうっすら雪の積もった少年を抱えた祐之進がこれまた肩やら頭に雪を積もらせて無言で立っていた。
状況が全くわからなかったが、尋ねても何も言わず立ちすくむ祐之進の様子に、腕を掴むと急いで家に入れた。祐之進の肩や頭についた雪を手早く払い、湯と手ぬぐいを用意した。祐之進は終始無言で、少年は死んでいるのか生きているのかわからなかったが、祐之進は無言で少年を火鉢の近くに横たえた。祐之進の様子からまだ少年が息をしていることはわかった。
祐之進に温かいお茶を飲ませ、冷え切った少年の様子を見た。年のころにして10才ほどで髪は長く脂と埃でばりばりになっており、泥と汗で灰色になっていたが恐らくもとは高価であろう絹の女性ものの着物を身にまとっていた。これはただの物乞いではないとすぐに分かったが、祐之進の様子が落ち着くまで、風呂を沸かして待つことにした。
これが私と作之介の出会いだった。
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