第23話 アガタの昔話
山縣きぬ、それが私の生前の名前だ。父は寺の住職だった。暮らし向きはそんなに豊かではなかったが、家族仲は良く、両親や兄達と賑やかな子供時代を過ごした。
倉庫業で財を成した雀部家は檀家で昔からの付き合いだった。当然その家の一人娘の小夜子も赤ん坊の頃から知っていた。
雀部家には3人の子供がいて、穏やかで責任感が強い長男の清之丞、その4つ下に引っ込み思案な小夜子、そしてさらに5つ下の利発で腕白な祐之進だ。
私の3つ下の小夜子が女学校に上がる為、身の回りの世話をする者が必要になり、身元も確かで雀部家の子供たちとも良好な関係を築いていた私に白羽の矢がたった。私も学校が終わり働き口を探さなければならなかったので、内情もわかっている雀部家からの誘いは渡りに船だった。
そもそも私以外の人間なら必要ない、とめずらしく小夜子がごねたと祐之進が後になって教えてくれた。
私が何故そこまで小夜子に気に入られていたのか、それは恐らく腕力を買われていたからだ。
当時から女子にしては身長が高く、また男兄弟にもまれて育っていた為、売られた喧嘩はいつでも買ったし勝った。たとえそれが相手が男でも女でもだ。街や学校で小夜子を困らせるものがいれば私が相手をしたので、それが心強かったのだろう。
小夜子が学校に行っている間は祐之進の遊び相手をしたが、祐之進に喧嘩のやり方を教え、また、近所では敵なしに育てたのはまぎれもなく自分だという自負がある。口を酸っぱくしていったのは、やられたらやり返せだった。(ただこれについては後に奥様に苦言を呈された)
雀部家では腕力で解決という非文明的な手段は選択肢にはないのだろうが、現実はきれいごとだけではすまないし、自分の身は自分で守らなければならないのだ。これはもともと武家の出身だった母の残した言葉だったが、それは今でも大切にしている。
惜しむらくは、私の知っている自分の身を守る方法は、薙刀や腕力に訴えるものばかりで、自分の心を守る方法を知らなかったことだ。
もしそれを知っていたならば、私が祐之進に教えたように、小夜子にも教えることができたのに。
※※※
小夜子は女学校を卒業して医者の家に請われて嫁いだ。10才ほど年上の男だった。中肉中背の特徴がないことが特徴のような男で、何を考えているのか分からない表情の乏しい男を私はあまり好きになれなかった。だが、小夜子にとっては大切な夫であり、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
結婚してから1年経つ頃には寝室が別になり、3年目には外で子供が出来たと告げられた。子供は男児で、跡継ぎが出来たと夫も両親も陰で喜んでいた。
小夜子は子が出来ないことを気に病んでいた矢先の知らせに臥せてしまった。昏々と眠り続け、目が覚めた時に私の姿を認めると、
「私の赤ん坊はどこへ行ってしまったのかしら」
そう言って静かに泣いた。
やがて涙は彼女の命と正気をゆっくり削っていった。起き上がることすらできなくなった彼女に追いうちをかけるように、義両親は離婚して実家に戻るよう迫ったが、小夜子は泣くだけで首を縦に振らなかった。
そして1年が経つころ、母屋では子供の笑い声が聞こえるようになった。離れで小夜子が臥せている間に、妾が子供を連れて家を出入りようになったのだ。小夜子の寝起きしている離れは普段人が立ち入ることはないので、ある日の午後、その賑やかな足音が聞こえた時には警戒が先だった。
勢いよく襖が開くと、例の男児と腹の大きな女が立っていた。子供が勝手にすいません、と口先だけで謝罪しながら女はこれ見よがしに腹をさすって微笑んだ。ずっと臥せていた為、髪は乱れ肌も艶を失った小夜子を見下ろして勝ち誇った顔をしていた。
ああ、これは終わった、私の中でそんな声が聞こえた。
私は怒りを腹の中で押さえつけながら、奥様はお休みなのでお引き取りください、と相手が口を開く前に眼の前で襖を思いっきり閉めた。
ゆっくり振り返り小夜子を見ると、小夜子は薄く笑いながら、
「…やられた」
やつれた顔に妙に目だけが爛々としていた。何かよくないことが起きそうな予感がして言葉が出てこなかった。だた、それだけ言うと小夜子はそれっきり目を閉じてしまい、眠ってしまった。
そして数日後、小夜子は死んだ。
そろそろ空気が緩んできた春の朝、それは忘れもしない小夜子の夫の誕生日に、入念に身支度した小夜子は家人の前で階段から転落してみせた。
病み上がりで足元が滑ったように装っていたが、彼女はすぐ横に控えていた私にその一瞬目だけ微笑んで見せ、そして階下の彼女を見下ろし、その横顔は勝ちを確信した顔だった。
妾はショックを受けの腹の子を死産し、子供は衝撃でその日以来口がきけなくなった。そして夫は自分の誕生日が離縁するつもりだった妻の命日になった。
通夜の手伝いに駆り出されていた私は笑いをこらえるのに苦労した。小夜子はこれまでの仕打ちにこうも痛快に仕返しをしてこの家を去ったのだ。棺の中の小夜子も満足げな顔をしているように見えた。小夜子を失ったことは悲しかったが、ずっと進むことも退くこともできなかった彼女の胸の内を考えると、それが自死という怖ろしい行為であっても、彼女にとっての救いであり、また復讐の手段だったのだろう。自分の命と引き換えに夫と妾とその子供3人の人生を壊そうと、自分の命の使い方を考えたのだ。儚げで穏やかに微笑む彼女の内面は、表向きの顔とは全く別人だった。
葬儀が終わり一段落したところで、襖越しに例の夫と妾が晴れて夫婦になれる、ここから新たにやり直そうと話しているのが聞こえて、すうっと指先から冷たくなるのがわかった。だが、動揺している場合ではなかった。あの男を破壊しなくては小夜子の死が無駄になってしまう。
私は小夜子の計画を完遂する為に、早々に小夜子の遺品をまとめ、家を辞した。小夜子がいないので、当然止める者もなく、誰に見送られることもなく家を後にした。
そしてその晩、医者の家は火事を起こし全焼した。落雷があったとか、放火だったとか、さまざまな憶測が街をにぎわせた。診療所を兼ねていた家が燃えたことで、男は家と職場を失った。人の口に扉は立てられず、自殺した正妻の呪いやら、天罰が下ったと人々は噂した。医者は診療所の再開を試みたが、街の人間は気味悪がって寄り付かず、やがて一家は函館の街から姿を消した。そして半月ほどした頃、函館湾に医者の遺体が上がった。
これらは断じて私の所業ではない。
※※※
雀部家に小夜子の遺品を届けに行くと、来訪を歓迎してくれた上に再び雀部家で働いてはどうかと誘ってくれた。皆、見知った顔ぶれでそれはありがたい申し出ではあったけれど、主を死なせてしまった以上、ここには自分がいて良い理由が見つからなかったので丁寧に固辞した。
幸いこの街には知り合いも多く、仕事を探しているというと働き口は紹介してもらえそうだった。小夜子の四十九日が終わったらどこか住み込みで働けるところで働きたい、と海が見える公園で風に吹かれながら思案していると、不意にどこからか名前を呼ばれた。
柵から身を乗り出し声のする方を見ると、坂を上がってきたのは学校帰りの祐之進だった。
「坊っちゃん、そんなに走ると転びます」
「坊っちゃんはやめてくれ」
祐之進はそういって口をとがらせた。もうすぐ16才になるが、まだまだ可愛らしくて、つい昔のように呼んでしまう。
「おきぬにお願いがあったんだ、丁度よかった」
少年は私の横に立ち、息を整えながら、迷いのない瞳で私を見上げた。
「洋菓子を売ろう」
また、突拍子もないことをとため息が出る前に、祐之進は畳み掛けるように
「ちよさんが娘さんのところに行くことになったんだ。だからおきぬ、そこをで洋菓子を作っておくれよ」
早々に連れ合いを亡くして一人で菓子舗を切り盛りしていた柔和な顔をした老人の顔を思い浮かべた。確かに最近通りかかかっても、店は閉まっていることが多かった。
「最近、火の不始末が続いてね。娘さんのところに身を寄せることになったそうだ」
そしてこちらをチラリと見ながら、
「火の扱いはおきぬは得意だろう?それに店の2階に住めばいいじゃないか、うちに帰ってこないなら」
勘のいい子供は可愛くない。私は渋い顔をしていたのだろう、祐之進は私の返事を待たずに、じゃあ明日!と言ってさっさと退散した。
そのまま去るかと思って後ろ姿を見ていたら、あ、と振り返り祐之進が言った。
「案ずるな!姉上もきっと喜んでる!」
そう言って手を振ると再び駆け出して行った。転ばないで、と言いかけて不意に頬を熱いものが伝った。
私の罪悪感も寂寥感も無力感も、この苦い気持ちの全てを飲み込めると思っていたが、自分はそんなに器用ではなかったようだ。堰を切ったように流れた涙の分だけ、胸のつかえがするすると降りていくようだった。
久しぶりに涙が流れたことに驚き、そしてそんな自分が何だか可笑しくて手巾を出すのにモタモタしていると、目の前に繊細な刺繍が施された白いハンカチが差し出された。
見上げると、亜麻色の髪の奥に緑が散る明るい榛色をした瞳がこちらを覗き込んでいた。何か言っているが外国語なのでよく分からなかったが、その表情に私を心配してくれていることは分かった。
異人は決して珍しくもなかったが、話したことはなかったので何と答えたものかと困っていると、男はそっとそのハンカチで私の涙を押さえた。
いきなり触れられて、驚きのあまり息を飲んだ。いつもなら、その手首をねじり上げて投げ飛ばすところであったが、男の纏う優し気な空気にそうすることが躊躇われた。
私よりもはるかに背の高いその男は、そっと様子を伺うように私の顔を覗き込んだ。男のガラス玉のような瞳が私の視線を捉えると、魂が吸い込まれるような感覚に落ちた。
男の背後の方から男を呼ぶ声がした。すると男は私にハンカチを握らせ、何か言って去っていった。
それが生前、私の心を殺した男との出会いだった。
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