3 家が燃えているよ、どうしよう!
間違いない。あの、桜の花のような甘い匂いは、蛇の子だった頃の僕を埋めてくれた女の人の香りだ。あれから何年も経っているようで、当時よりもオトナのイロケがむんむんしている。……あれ、そんな言葉どこで知ったんだろう。まあ良いか。
にょろにょろ。僕は、彼女の後ろを追い、人間の集落へとたどり着いた。
「戻りました」
「お帰りなさい」
「お母ちゃん!」
お母ちゃん。
あの人は気づいたらお母ちゃんになっていたらしい。僕を抱き締めてくれた腕の中には人間の子どもたちがいて、なんだか胸が苦しくなった。僕もあそこへ行ったら、優しくしてもらえるかな。そう思って家に近づこうとしたけれど。
——なんだありゃ。変な模様の蛇だぞ。
悪ガキのひどい言葉たちが蘇る。
——この悪蛇め。おい、火を持って来い!
人間はきっと、僕のことなんか好きじゃない。あの時は優しかった彼女も、僕が家に現れたら火をつけようとするのかも。
もちろん、神様
僕はしゅんと項垂れて、家から離れて近くの藪の中に戻って行った。それから何日も何か月も何年も、僕は藪の中から彼女を見つめ続けた。
彼女はどうやら、ヒネという名前らしい。同じ家に住んでいるおっちゃんのうちの若い方が馴れ馴れしく呼んでいたから知った。
子どもたちが大きくなって、彼女の顔に皺が増え、骨っぽいおっちゃんが亡くなって、若い方のおっちゃんの髪が白くなっていくのを見守った。
ヒネ。大好きなヒネ。僕はいつもここから見つめているよ。君と君の子どもたちをずっと見守るんだ。
そんなある日。
僕が隠れている藪が、ざわりと揺れた。動物がやって来たのでも、風が草を撫でたのでもない。強くてちょっと不快な気配がぷんぷんする。
僕は、変だなあと思って気配が濃い方へと向かう。そして、言葉を失いあんぐりと口を開けてそれを見た。
ヒネの家が、燃えている。
わーっとなっていた茅葺き屋根に、わーっと炎が纏わりついて、もうしばらくしたら焼け落ちちゃいそう。けれど僕は偉大なる
「き、ききき消えろー!」
僕は叫ぶ。でも何にも起こらない。
「あ、あれ? もう一回。消えろ、消えろー!」
「ふはははは」
突然、僕の後ろから笑い声が聞こえた。なんだか嫌な気分。振り返るとそこには、赤いにょろにょろ。でも蛇じゃないみたい。小さいけれど手足があって、角もある。この姿は。
「わー、竜さんだ」
初めて見たぞ。ちょっと目を丸くする僕に、赤い竜は、ふんっと鼻を鳴らして言った。
「神に片足を突っ込んだ程度の
「え、あれ、竜さんが起こした火事なの? どうして、どうしてそんなことをするの! 君は誰?」
「俺の名は
ほほさん。僕よりも立派な名前。ということはきっと、先輩なんだ。でも。
「だからって、ヒネの家を燃やすなんて! あの家族は別に、悪いことなんてしてないよ。おいしい物を独り占めしているわけじゃないし、ひもじい家の子に木の実を分けているのも見たよ」
「そんなこと知らねえよ。俺はただ、捧げられた美味い酒に報いただけさ」
「だめ、すぐに火を消して!」
「ふふん。おまえも火の神なら力づくで止めてみれば良いじゃねえか。ま、ただの
あばよ、と身体を一回転させて、火穂は去って行く。僕は何もできずにそれを見送った。
どうしよう。このままじゃあヒネの家がなくなっちゃう! それどころか。
「エイ? エイ、どこなの」
悲鳴のような声が聞こえた。見れば、ヒネが泣き叫びながら、燃え盛る家に戻ろうとして、近所の人たちに引き留められている。
「行かせて! エイが、エイがまだ中にいるの」
なんだって!
エイとは確か、ヒネが産んだ一番下の子どもで、まだよちよち歩きの女の子だ。実は少し前にひっそりと家に忍び込み、近くで眺めたことがある。笑顔が無邪気で、ヒネとは違う匂いだけれどちょっと甘い香りがして、ふにふにってしていて、とっても可愛らしい子だった。
あの子が、火に包まれた家の中に取り残されているだなんて。僕は、いても立ってもいられなくなり、にょろにょろと全力疾走して家の中へと飛び込んだ。
室内には煙が立ち込めていた。床の近くには、綺麗な空気の層がほんの少しだけあって、エイは壁の側に横たわっている。
火の手がエイに触ろうとしている。僕はエイの袖を噛んで、壁際の炎から引き離した。そのままずるずると入り口側まで運ぼうとしたのだけれど、力が足りない。途中で力尽きて、
小さくて可愛いエイ。ぴくりとも動かない。生きているのかどうかもわからない。
まだ生まれたばかりなのに、なんにも悪いことはしていないのに。どうしてこんな目に遭わないといけないの? まだまだこれから楽しいことが君を待っていただろうに。なんだか、蛇の子だった頃の自分と重ねてしまい、二重の意味で胸が苦しいんだ。
助けたい。でも、僕には何もできない。火の神だなんていっても、まだまだ大したことなくて。ああ、僕ってこんなに非力だったんだ。
強くなりたい。僕は心の底から願った。強く立派になり、大事な者たちを守りたい。火穂のように誰かを傷つけるのではなく、見守り守護する神になりたい。できることなら、ヒネとその大切な人たちを、彼女が命を終えるまで……ううん。
「
気づけば、僕の口が動いていた。
「僕に力を貸して」
しばらく反応はなかったけれど、やがてちりちりと火の粉が舞い、いつかのように火霊が僕に語りかけた。
——弱々しい火の神よ。我らはすでに、おぬしよりも上位の神により、この家を燃やし尽くせという
「それなら僕が、火穂よりも強い神になる。だから力を貸して」
低い笑い声が辺りにこだまする。
——
「僕が
——それは、偉大になってから言うのだな。
火霊は楽しげに笑いながら、消え去った。僕はどうしたら良いのかわからなくなり、その場でパタリとひっくり返る。
いよいよ火が迫り、熱で肌がちりちりしだす。僕は痛みを感じないけれど、エイはきっと熱いんだろうな。僕は彼女に巻き付いて、火の粉を遮った。
いつか、ではダメなんだ。今、強くならないといけない。火穂のように、小さくても良い。ただの蛇神じゃなくて、もっと神聖な、そう、たとえば竜神になることができれば……。
「エイ、必ず守るから」
ぼうっ、と全身が燃え盛るような心地がした。その熱が、外から伝わるものなのか、自分の身体の中から生まれたものなのか、良くわからない。でも、どっちでも良い。
僕は、エイを守る。絶対に守るんだ。
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