前世で仕えた竜神様に執着されているみたいです⁉︎

平本りこ

本編 魔術都市ハルーンにて ~一番最近の出来事~

1 不吉な夢を見ました

「あくまでも我に屈しぬと言うか」


 ぴちゃぴちゃと、岩壁を滴る水の音がする。夜明け前、辺りはまるで水底のように青く暗い。ほとんど明かりのない岩屋の中で、私は目の前に迫る声に震えていた。


 不機嫌な声ともに、ずるりずるりと何かが地を這う重たげな音が近づいて来る。足の腱でも負傷しているのか、逃げようとしても立ち上がることができず、私は両手を頼りに身体を引きずり距離を置こうとした。


 ずるり、ずるり。


 迫り来る者の姿は見えないけれど、私はそれが、何者なのかはっきりと知っている。


「――のミコよ。残念だったな。おぬしの神は助けに来んぞ。じきに朝になる。あやつは我が領域には入って来られぬからな」


 空気が揺れた。それが全身の筋肉を緊張させ、身体を伸ばした気配がする。


「屈しぬというならば、奪い返すのみ。さあ、ミコよ」


 声が、私の頭上から降って来る。


「全てを捧げ、我の糧となれ」


 朝日が昇った。ちかっ、と差し込んだあけぼのの光が、私の目の前の者を赤く照らし出した。


 滑らかな鱗。とぐろを巻く巨大な身体、そして私を呑み込もうと頭上から迫る、大きく開かれた桃色の口……。





「いやーっ!」


 上掛けを盛大に蹴り飛ばし、マルツィアはがばりと飛び起きる。


「蛇、蛇っ! へーびー!」


 先ほどまで、生温かい呼気が迫っていた頭上辺りを両手で振り払う。四肢を振り乱し、狂ったように暴れた結果、踵が宙を踏んでベッドから転がり落ちた。


「あうっ」


 床に敷いたふかふかマットの上とはいえ、受け身も取らずに背中を打ち付ければ息が詰まる。マルツィアはしばらく呻いてから、手を突き上体を起こしてさめざめ泣いた。


「旅立つ日に蛇の夢だなんて不吉だよう」


 マルツィアは蛇が嫌いだ。あちこちににょろにょろと動く細長い身体。しっとりと妖しく光る肌。ぴろぴろと口から出たり入ったりする細い舌。……いいや、奴らのことを好きな人なんてきっといない。いたとしたらその人は、かなりの変わり者ともいえる。遥か昔、神話の時代、神様の言いつけに背いて人間に悪を唆した狡猾な蛇は、悪魔の象徴なのだ。


 そんな蛇に食われる夢を、マルツィアは幼少の頃から頻繁に見る。理由は不明だけれど、正直どうにかしてほしい。


 幼い頃は、悪夢を見る度に両親やばあやに泣きついたものだが、マルツィアはもう十六歳。先日の誕生日に聖堂に赴いて、偉大なる唯一神の祝福を受けて大人の仲間入りをしたばかりなのだ。いいや訂正。大人の仲間入りをする、はずだったのだけれど。


 痛みが引いた頃、マルツィアは溜め息を吐いて腰を上げ、ドレッサーの前に立った。旅装に着替えるため、ネグリジェの肩を落とす。代々優秀な火の魔術師を輩出するヴィスアニ家に生まれたマルツィアには、先日までメイドのアンナが仕えてくれていた。もちろん着替えもアンナが手伝ってくれていたのだけれど、彼女は数日前に暇を出されてもういない。


 身体を軽く斜めにして、素肌の背中を鏡に映せば、しみ一つない白い肌の上に、黒々ととぐろを巻く蛇の模様が刻まれている。魔力を操る力を封じる刻印だ。


 先日、大人の証拠でもある使い魔との契約に失敗したマルツィアは、生まれ育った魔術都市ハルーンを追放される運命だ。


 できそこない魔術師の末路は悲惨。背中に憎き蛇の刻印を刻まれて魔術の使用を封じられ、本土の修道院へと送られる。水上に浮かぶ魔術都市ハルーンと本土の間を行き来するためには魔術の力が必要なので、追放されてしまえば最後。刻印を背負うマルツィアはもう、一人では生まれ故郷に帰ることができないのだ。


「ううう……どうしてこんなことに」


 悲しいかなマルツィアは、自分の背中を見るのも恐ろしく、ぶるりと身体を震わせて肌着に袖を通した。


 誰もが簡単にこなすはずの通過儀礼、使い魔との契約。なぜ失敗してしまったのだろう。マルツィアは半泣きではなをすすりながら、忌々しいあの日のことを回想した。

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