第6話「旅の始まり」

 飲食店を出発してから、数十分後。ハクは現在、件の屋敷へと繋がる坂道を駆け上がっていた。

 どうやら、この辺りではつい先程まで雨が降っていたらしい。道がぬかるんでいるため、注意して進まなければ足を取られそうだった。

 ただ、ゆっくり歩いている暇はない。完全に日が沈むその瞬間は、刻一刻と迫っているのだから。


(なんだ? この感じ……)


 胸のざわめきが、走れば走る程に強くなっていく。全力疾走による心拍数の上昇とは、また別の現象だった。

 夢で助けを求めてきた存在が、すぐ近くにいる。それを、ハクは全身で感じていた。

 だが、この周辺を訪れているであろうフランという少女とは別人のはずだ。ならば、いったい────思考を巡らせようとしたが、傾斜の向こうに見えた衝撃的な光景によって、彼の意識は現実へと引き戻される。


「あれは……」


 視線の先には、二人の少年少女と、一匹の化物がいた。ハクから近い順に、少女、少年、化物だ。

 少女を庇ったであろう少年が、化物の鋭利な爪によって切り裂かれようとしている。その状況をハクが理解するのに、一秒も要さなかった。

 疾走を続けながら進行方向に杖を翳し、その先に魔力を集中させる。それから、魔法の精度をより向上させるべく、彼は想いを込めながら叫んだ。


「『ペネトレイティング=レイ』!」


 杖の先から放たれた光が、傾斜を駆け昇っていく。それは一直線に進んでいき、少年に迫っていた化物の剛腕を貫いた。

 さながら、槍のように。


「大丈夫かい?」


 化物は仰け反り、数歩下がって痛みに悶えている。ハクはその隙に少女を追い抜き、少年の横に立って顔を向けた。


「あ、ああ。とりあえずは」


「良かった」


 生傷こそちらほらと見受けられるが、酷い出血などはなさそうだ。軽くしか確認できていないが、少女の方も同様だった。

 故に、集中するべきは、一つ。


「さて……」


 先の一撃で終わるはずがない。そう理解していたハクは木の杖を握り直し、その青い瞳で相手の方を鋭く睨んだ。

 肉食獣と人間を強引に合体させたような、不恰好な体躯。首は短く、そこから続く胴体は、他の部位と比べると痩せ細っているようにも見える。だが、それは四肢の筋肉が尋常ではない程に肥大化していることでそう見えるだけで、決して貧弱な体というわけではなかった。鋭利な爪と牙がただの飾りに思える程、発達した肉体だ。

 体毛は一切なく、謎のつぎはぎだらけの青白い地肌が露出している。絶妙な違和感が、不気味さにより拍車をかけていた。


(これが、魔物……?)


 冥王の瘴気に当てられて暴走した生物の総称。身体能力が大幅に向上しており、また、闇属性の魔法を使用することも可能になっている。元の生態に関わらず、夜間の活動が主。結界内に侵入することはほとんどないが、不可能なわけではないらしい。

 それが、ハクの脳内に存在する、魔物についての知識だ。

 常軌を逸する肉体はまさに魔物と言うべきなのだろうが、つぎはぎ等を見るに、人工的に作り出されたようにも思える。まだ日没ではないというのに活動している点も気になった。


「とりあえず、で終わらないように、君にはご退場願いたい」


 答えを出すのは、今でなくてもいい。そう考え、ハクは魔力を高めた。

 両者の間に、張り詰めた空気が漂う。

 魔物は唸り声を上げながら彼の双眸を睨みつけていたが、しばらくすると徐に踵を返して去っていった。


「助かった、のか?」


「そのようだね」


 少年に声を返しながらも、ハクは魔物から目を離さない。相手の背中が遠のいていき、完全に見えなくなってから、ようやく臨戦態勢を解いた。


「い、生きてる…… 私、生きてるよ……」


 緊張が解けたからか、少女はその場にへたり込んでしまう。それにつられてか、少年の方は大きなため息を吐きながら自身の両膝に手をついた。


「ありがとう。お前がいなきゃ死んでた」


「礼には及ばないよ」


 ハクはそう返しつつ、自身が助けた相手の容姿を確認する。

 黒い髪に、赤い瞳。背丈は少し低いようだが、雰囲気からして同年代だろうと推測できる。

 先程、彼の手からは剣の柄が放られていた。本来あるべき刃の部分は、折れてしまっている。彼なりに応戦した結果、ということか。


「だけど、こんな所を訪れるなんて感心しないね。魔物の出現報告が上がっているというのは、マクア近辺では有名な話だろう?」


 今度は少女の方に視線を向ける。先程耳にした特徴と一致していることを、既に確認できていたからだ。


「あ、あはは…… ちょっとお花を探してたら雨に降られちゃって…… 私はフラン。マクア出身。よろしくね」


「おっと、紹介がまだだったね。僕の名前はハク。魔導士の国、アイアから来たんだ。よろしく。それと、黒い髪の君は? なんて言うんだい?」


「そうだ、まだあなたの名前を聞けてなかったんだ。教えてくれる?」


「ああ、それが、ええと……」


 言い淀む少年。視線を逸らしながら、困ったように人差し指で頬を掻いている。


「…… どうかしたのかい?」


 何か、素性を明かせない理由でもあるのだろうか。ハクは訝しむような目を向けたが、相手から返ってきたのは予想外の言葉だった。


「いや、実は俺、記憶喪失? ってやつみたいでさ。気づいたらあの屋敷の中にいたんだよ。どうしてあそこにいたのかも、自分の名前も、なんにもわからないんだ」


「記憶、喪失……」


 ハクはそう繰り返し、自身の口元に手を当てて考え始める。

 恐らく、胸騒ぎの原因は目の前にいる少年だろう。今抱いている感覚がそれを告げていた。

 その相手が、自分と同じく記憶を失っている。ただの偶然とは思い難かった。本当のことを言っているとは限らないが、嘘と一蹴することもまたできない。


「ま、いきなりこんなこと言われても信じられないだろうけど」


「私は信じるよ!」


 フランが立ち上がって、力強くそう言った。まるで、先程までの疲労など消え去ってしまったかのようだ。


「命懸けで私のことを助けようとしてくれたんだもん。そんな相手を信じられないわけないよ」


「フラン……」


「僕も信じるよ」


 フランの言葉を受け、ハクも決意を固める。不快感や不信感を与えないよう、できるだけ自然に、柔らかな表情を浮かべられるよう努めた。


「とりあえず、僕と一緒に来ないかい? わけあって世界中を旅しているから、もしかしたら君の記憶の手掛かりも見つけられるかもしれない」


「いいのか?」


「乗りかかった船ってやつさ」


 自分も同じ問題を抱えていることについては、まだ明かさない。少年を全面的に信用することは危険に思えたためだ。まずは、レマイオに確認を取るべきだろうと判断した。


「フランちゃんも、家まで送っていこう」


「ありがとう! あと、フランでいいよ!」


「わかった。これからはそう呼ばせてもらうね」


「よし、それじゃあ早速……」


「ちょっと待って!」


 先行して歩き始めた少年を呼び止めたのは、フランだ。

 記憶喪失の状態では進むべき方向などわからないだろう。そう指摘するのかとハクは考えたが、どうやら見当違いだったらしい。


「なんだよ?」


「覚えてないって言ったって、名前がなきゃ不便じゃない?」


「『あなた』とか『君』とかって呼んでんだし、それで良いんじゃねえの?」


「それじゃ親交が深められないでしょ!」


 少年よりも、フランの方が彼の名前について真剣に考えているという奇妙な構図が生まれる。つい先日、同じようなやり取りを行っていたこともあり、ハクは少年に対して少しばかりの親近感を覚えた。


「まあ、僕たちとしては何かしらの呼称があった方がありがたいかな」


「そうか? うーん……」


「あ! じゃあ、『クロ』なんてどうかな?」


「クロ?」


「黒髪で、黒い服。目は赤でちょっと惜しいけど、クロ、って感じするよ」


「他人の目を惜しいとか言うんじゃねえよ失礼だろうが」


 少年が、フランの失言に一息でツッコミを入れる。ただ、気分を害されたわけではないのか、その声に怒気は込められていないように感じられた。


「でも、クロか…… うん、しっくりくるかも。とりあえずはこれが俺の名前ってことで」


「よし、これからよろしくね、クロ!」


「よろしく、クロ君」


「呼び捨てでいいよ。二人とも、よろしくな!」


 微笑みを浮かべながら、言葉を交わす。

 雨上がり。夕日も届かぬ暗雲の下で、三人の旅は始まりを迎えた。

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