第4話「夢」

 何も見えない暗闇で、ただ、声だけが響く。


『父さん、母さん。みんな……』


 声は一人分。それに応答する者はいない。

 声が聞こえ、意識を保っている『少年』もまた、返事をすることは叶わなかった。


『誰か……』


 その声を、知っている。少年はそう直感したが、その者の顔や名前を思い出すことはできなかった。


『誰、か……』


 か細くなる声。

 はっきりと言葉になってはいなかったが、その者が何を願っているのか少年にはすぐにわかった。

 ただ、己の姿すら見えない暗闇では、どこに手を差し伸べることもできない。紡いだ言葉が自分自身にすら聞こえないこの状況では、他の誰に声を届けることもできはしない。

 少年には、そこにいるであろう『誰か』を救うことはできなかった。

 この、世界では。


「────今、のは」


 切り替わる視界。瞳に映し出されるのは、見慣れた天井だった。

 少年は上体を起こし、窓に視線を向ける。カーテンの隙間から差し込む光は、日中のそれとは異なった。

 連日の修行で蓄積された疲労を考えれば、今すぐにでも眠り直すべきだろう。だが、胸騒ぎを覚えてしまった彼の脳からは、既に眠気は消え去っていた。


「あ、れ……?」


 頬のあたりに違和感を覚え、指で撫でる。暗いせいではっきりと確認することはできないが、感じた冷たさから、自身の指が何に触れたのか気づけた。

 涙だ。

 瞳から頬へと、涙が伝っていた。

 その理由もまた、彼は自覚している。

 先程の夢だ。だが、不気味な夢に対して恐怖を感じたからというわけではない。

 暗闇に響く声の主が抱いているであろう感情。その哀しみを、少年は知っている。

 共感や同情ではない。全く同じ感情を、願いを、かつて抱いたことがあると思い出したのだ。

 脳から記憶が抜け落ちていても、心が、それを覚えていた。涙が流れたのは、その表れだ。


「…… 行かなきゃ」


 ここは現実。思いどおりに体を動かせる。声も紡げる。ならば、動かなければ。幸い、向かうべき場所は心が示していた。

 少年は立ち上がり、手早く身支度を済ませて部屋から出る。暗闇の中、物音を立てないように廊下を進み、階段を下り、やがて玄関まで辿り着いた。

 そして、最後の扉に向けてゆっくりと手を伸ばす────


「こんな夜更けに、どこへ行くつもりじゃ?」


 背後から、声。少年が振り返ると同時に玄関の照明が点灯したことで、声の主の姿が露わになった。

 レマイオだ。

 もっとも、少年は声だけで相手を判別することができていたが。


「…… 誰かが、呼んでいる」


 誤魔化したり取り繕ったりせず、本心を伝えることにした。そうでなければ、己が胸中に芽生えた新たな望みのために動くことは、できないと思えたからだ。


「助けを求める声が、聞こえる」


 夢の中で、直接聞いたわけではない。だが、微かな声に込められていた願いがそうであると、少年は確信していた。

 そして、あれがただの夢ではないとも。


「僕に宛てられたものじゃ、ないかもしれない。でも、行かなきゃいけない…… そう思うんです」


 あの声を聞いたのが、自分だけだとしたら。そう考えると、いてもたってもいられなかった。たとえ、『誰か』の中に自分が含まれていないとしても、動かずにはいられない。


「まだ修行は終わっていないんじゃがのう」


 レマイオは首を傾けながら髭を撫でている。怒りこそしていないようだが、内心穏やかではないだろう。

 少年の行動は、冥王の瘴気を祓うという使命から逃れようとしていると捉えられても仕方のないものだ。彼自身が、どのように考えていたとしても。


「申し訳ありません。でも、今行かないと取り返しのつかないことになる気がして……」


「…… どうしても、行くのか?」


 撫でる手を止めて、レマイオが少年の顔を見つめる。その双眸は一切揺らぐことなく、相対する瞳を射抜いていた。これまでに見たことがない程に、引き締まった表情をしている。言葉を濁したり、冗談で誤魔化したり、といった行動は許されないだろう。

 ならばと、少年も意を決して答えることにした。


「はい」


 伝えるべきことは、全て伝えている。故に、少年はただ一言、そう返したのだった。

 それを受けて何を思ったか、レマイオは瞼を閉じてから気が抜けたかのようにため息を吐く。


「そこまで言うのであれば、止めはせん」


「本当ですか?」


「ああ。そもそも、お主の本来の目的を優先するように言ったのはわしじゃしのう」


 どうやら、記憶の手掛かりを得るための行動だと思い込んでいるらしい。少年自身、そのようなつもりは全くなかったが、今更訂正することもできなかった。


「じゃが、国外に出るつもりなら、出発は夜が明けてからにしなさい。『証』を持たないお主では、夜間の出入国はできないからのう」


「…… 証?」


 少年が拾われてから、一ヶ月近く。レマイオに尋ねたり本で調べたりと、自発的に情報収集を行ってはきたものの、この世界に関する知識はさほど増えていないようだった。


「そうじゃ、いいことを思いついたわい」


 目を見開いたレマイオが、左の掌に右の拳を叩きつける。


「ちと腕を出してみい」


「は、はあ……」


 質問をしたつもりだったが、言葉足らずだっただろうか。少年のそんな懸念は、左手中指に突如として出現した銀色の指輪によってかき消された。


「これは?」


 水晶のように透き通った中石へと目を向けながら、少年は尋ねる。


「各国で結界を維持している、『番人』と呼ばれる者たちから課される試練を乗り越えることで、証を譲り受けることができる。その指輪は、試練を受けるための資格のようなものじゃな」


「…… つまり、僕にその試練とやらを受けに行けと?」


「話が早くて助かるわい」


 証、番人、試練。

 新たな単語が次から次へと出てくるが、自分なりに噛み砕いて解釈することで、一つ一つ聞き返す手間を省略した。


「証には結界と同じ力が込められていてな。証があれば、冥王の瘴気への耐性という恩恵が受けられる。それも、証の数だけより強力に、な」


 証があれば夜間の出入国を許されるというのは、その恩恵とやらが関係しているのだろう。

 何故、夜間にのみ規制をかけられているのか。そもそも、何を危惧しての規制なのか。疑問は残るが、レマイオの言葉が続きそうだったため、少年はそれらの解消を後回しにせざるを得なかった。


「それらと、お主が宿す光属性の魔力を掛け合わせれば、冥王の瘴気を完全に消滅させることができるやもしれん。無論、確証があるわけではないが……」


「可能性が少しでも上がるなら、やるべきですね」


「うむ。本来は、わしのもとでの修行を終えてから向かってもらうつもりじゃったが…… 試練を通して力をつける方針へ切り替えることにする。その方が、何かと動きやすいじゃろうて」


「…… 配慮していただき、ありがとうございます」


 突然言い出した我儘に快く対応してくれたことへ感謝の念を覚え、少年は頭を下げる。

 夢の件が片付き次第、この場所に戻って修行を再開するつもりだったが、事が上手く運ぶとは限らない。与えられた使命も成し遂げたいと考えている彼にとって、新たな方針は適切なものだった。


「構わんよ。番人にはわしの方から伝えておくのでな、都合のいいときに各国を巡って試練に挑戦してきておくれ」


「承知しました」


 少年は顔を上げ、自身の胸に握り拳を当てる。


「とは言え、お主、知らないことが多すぎて不安なんじゃよなあ…… いや、仕方のないことなんじゃが……」


 レマイオの言葉はもっともだろう。

 一人で世界中を回るには、少年は知識に乏しすぎる。交通手段や路銀の調達方法、物価の相場にその他多くの常識と、上げればきりがない。


「ううむ、あまり使うべきではないが、止むを得んか……」


 レマイオはしばし唸った後、距離を詰めて少年の頭に手を乗せる。


「ちと…… いやかなり…… 凄まじい痛みに襲われるやもしれんが、許せ」


 返事をする前に、『それ』は行われた。

 文章が、音が、映像が。少年の脳内に直接流し込まれる。およそ、人間に処理しきれるとは思えない程の速度で。

 日常生活を送るだけではまず受けることがないであろうその刺激に、人間の体は順応できない。それは彼とて例外ではなく、夥しい量の情報を供給され続けることで、脳が破裂しそうな痛みに襲われていた。

 喉も痛む。叫び声によるものなのだろうが、彼自身の耳にそれは届いていない。

 やがて、感情すら情報に阻害されて認識できなくなり────その数秒後、彼は意識を手放した。

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