中の人
その日も
着ぐるみの視界は狭い。上下が限られた中、目の前にいる相手しか見えない。時たま観客に向かってレッドを倒す宣戦布告や、自分が所属している悪の組織の恐ろしさを語るシーンがある。そんなとき、時任は自分が倒されることを、二度と立ち上がることの出来ないように打ちひしがれる様を心待ちにしている、憎悪に満ちた目を目撃するのであった。
子供の目ほど純真なものはない。子供の目ほど残酷なものはない。それはこの上もなく綺麗な魂で、この悪がものの見事に撃退されることを待望する目であった。熱望はレッドの上に注がれる。彼はその期待に応えるために腰元の
もちろん鉄烈剣は本物の刀ではないが、時任誠一はこの時イテキスキーという立派な名前で通っている。着ぐるみの長い赤鼻は仕込んでいた通りにぽきりと折れ、イテキスキーは断末魔の苦しみにあえぎながら、どうっとその場に崩れ落ちるのである。
ワッと歓声があがる。割れんばかりの拍手とレッドをたたえる声で会場は一杯になる。
時任はこの時うつ伏せになって倒れている。狭い視界からはレッドのくるぶししか見えない。そのくるぶしは目の前からしばらく動かない。レッドが観客の声援に応えて大きく手を振り、その場を動かないのである。
舞台裏に戻って着ぐるみを脱ぐ。まだ残暑の厳しい季節なので、着ぐるみの中は汗でぐっしょりと湿っている。
時任が身体の汗をタオルでぬぐっていると、声を掛けてくる男がいた。
「時任くん、お疲れさま」
「……お疲れ様です」
にこやかな笑顔のこの男は、先程までレッドの衣装に身を包み、歓声を一身に受けていた栗田大樹である。舞台上でレッドの姿になっている時にはその顔が見えないが、平素の顔も戦隊物の主人公というにふさわしい容貌を備えている。
時任は内心この男が苦手だった。いつも着ぐるみ姿でやっつけられているからというのもあるかもしれないが、彼と対峙していると自然に自分の中から卑屈なものが出てくるのが感じられ、それが転じてこの男に対する苦手意識へと成長していた。
「さっきの舞台はなかなか良かったよ!時任くんもだいぶショーに慣れてきたね」
「ありがとうございます」
「ショーに出始めてからどのくらい経ったかな?」
「今日で大体三か月くらいです」
「もうそんなに経つんだねえ」
大学生の時任は始終金に困っていた。そんな時、地域の不動産屋に貼られていた無数のアルバイト紹介の中に、このヒーローショーの着ぐるみバイトの募集を見付けたのだった。他にも候補が無い訳でもなかったが、時間の都合がつくことと、何より給料が良く、その日払いで現金手渡しなところが彼には気に入った。時任はそのまま不動産屋の社員に詳細を聞き、面接の連絡を取り付けた。
面接はとんとん拍子で進み、さっそく三日後から彼は舞台の上で華々しく散る役を仰せつかった。即ち敵役の一人、イテキスキーである。
初舞台の出来は惨憺たるものだった。彼はレッドに戦いを挑むときの口上を覚えきれず、手に隠し持っていた小さな紙切れを見ながらつっかえつっかえ台詞を言った。本当は観客を見据えて断固たる口調で喋らなければならない所がこの有様で、しかも悪いことに、レッドが彼に斬りつけてからは、自慢の赤鼻が折れた後に倒れなければならないという大切なルールを、彼はすっかり忘れていた。イテキスキーはその長い鼻の折れるのが一番の見せ場なのである。
時任は倒れた後、観客の反応が妙に少なく、なんともいえない雰囲気になったことを今でも忘れることが出来ない。
それでも回を重ねてくれば慣れてゆくもので、今では時任にもショーの最中に周囲へ注意を払う余裕が生まれてきた。そうなってくると観客がいま何を望んでいるのか、どのタイミングでレッドとやり取りをし、どこで倒れればいいのかなど、呼吸とでも言おうか、そういったものがだんだんと分かってくるようになっていった。
その呼吸に自分の身を合わせていくことに快さを覚える、というのが最近の時任の偽らざる心情である。
ただ、それはあくまで舞台の上での話だった。ショーが終わって着ぐるみを脱ぐと、そこにはいつもと変わらない自分が控えている。それはつまり、身体の不如意を感じるということである。常にある種のぎこちなさが、彼の動作には漂っていた。
そんな彼にとって、この栗田という男は奇妙な存在だった。舞台でレッドとして行動する栗田と、いまこうして衣装を脱いで扇風機の前に体をさらしている栗田とは、さほど違いがないように見えた。それが、時任には不思議なのである。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「はい、お疲れさまー」
いつも無駄な話はしない。栗田とも二言三言の言葉を交わすだけで、時任は現場を後にする。栗田もそんな時任の態度を気にしていない風だった。
帰り道、着ぐるみを着ている自分と、今こうして歩いている自分とでは、どちらが本当なのだろうと時任は考えた。これはショーに慣れるようになってきてからしきりに彼の脳裏に浮かぶ疑問である。着ぐるみの方が偽物なのだと断じることもできるが、その衣装に身を包んでいるときの方が、最近は自分自身に出会えるような気もするのである。こんなとりとめもない思考は歩いていると自然と浮かんできた。そしてふと、栗田のことも頭に浮かんだ。
彼はきっとこんなことを考える間もなく、何の疑問も持たず、どちらも自分自身だと答えるに違いない。栗田はそう答えるのにふさわしい人物に思えた。時任は考えながら、栗田と自分とをやはり別々のところに置いていた。その隔たりが無くなるとは思えなかった。しかし一方で、それでもいいような気もしていた。
ともかくまた日が昇り、特定の曜日が来れば仕事は始まるのである。時任は着ぐるみを切る時のあの心地良さが、続けていけばどういう地点に自分を連れていくのか、それが知りたかった。
誰もいない帰り道を一人、時任は台詞を呟きながら歩いて行く。そよぐ風は身体の汗を乾かしていった。
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