第74話 とある魔人族

 イスヴァールの街は現在、住民の数に対して市街地がかなり広い。

 これは将来的な人口増加に備えて、余裕を持った設計となっているためである。

 加えて、移民をすぐに受け入れるための”空き家”も存在していた。

 ゆえに街の中心部以外はやや人気が少なく、閑散としている場所も多かった。


「万事順調です。ええ、街の重要戦力はダンジョンに向けられています。ここで騒ぎを起こせば、まず間違いなく奴らは奥の手を出すしかないはずです」


 移住者用に準備された外壁沿いの住宅街。

 整然と並ぶ家々の一つに、黒いローブを着た男が入り込んでいた。

 部屋に人避けの結界を張った彼は、天井に張り付いた蝙蝠に向かってあれこれと語りかけている。


「ええ、では失礼いたします。オーカス様」


 男が膝をついて跪くと、蝙蝠はそのままどこかへ飛び去って行った。

 それと同時に、部屋の端から声が響く。


「魔人王の手の者が、蝙蝠を使ってるのかよ」

「屍人王からの借りものだ。なかなか便利だぞ」

「ふん。覇権を掛けて争うべき王同士でつるむなんざ、どっちも堕ちたもんだ」


 吐き捨てるように言うシェグレン。

 その両手両足は頑丈な鎖によって、これでもかと言わんばかりに拘束されていた。

 さらに鎖には大量の呪符が張られていて、シェグレンの力を抑え込んでいる。


「争うにも順序というものがあるからな。まずは、小鬼と豚に退場してもらうというのが我らが王のお考えだ」

「その過程で、邪魔なこの街を消そうってことか?」

「消すのではない、試すのだ」


 そう言うと、男は愉しげな笑い声を漏らした。

 薄闇の中、ローブからわずかに除く口元がにやりと歪んでいた。

 それを見たシェグレンは、たちまちフンッと鼻を鳴らす。


「趣味が悪いな。単に潰すだけだろ」

「いやいや、本当の意味で試すのだ。この街はいろいろと奇妙だからな、我らが王も興味を持っておいでだ」

「……確かに、妙なものは多いわな」


 たった数か月のうちに完成したとは思えない整備された市街地。

 街中を当たり前のように歩くゴーレム。

 そして人間とコボルト、エルフの三者が特に争うことなく共存している。

 その性格ゆえに、大樹海のあちこちを歩いて来たシェグレンでもこれほど奇妙な場所は他に知らなかった。


「だが、そんなものを使ったらこの街は跡形も残らねえぜ。そいつがどういう効果をもたらすのか、魔人族のアンタでもわかるだろ」


 そう言うと、シェグレンは視線を男が握っている小瓶へと向けた。

 小瓶の中には赤黒い液体――屍人王の血が入っている。

 旧き支配者の末裔である王の血がもたらす狂乱を、男が知らないはずはなかった。


「いやいや、案外どうにかなるかもしれんぞ。この街には、クロウラーの大群を倒したという銀色の怪物が眠っているのだからな。それに、ゴーレムを纏った女騎士も相当に強かったらしいではないか?」

「あのアリシアって女か。あいつは相当に強いが、今はダンジョンの奥に行っちまってるだろ。お前のせいで」

「何のことだか」


 やれやれとばかりに、男は肩をすくめた。

 しかし、シェグレンの眼つきは鋭いまま。

 彼にはダンジョンで起きている異変が男のせいだという確信があったのだ。


「あのいやらしいモンスターは、てめえらの作った魔造生物だろ。あんな特徴を持つモンスター、ダンジョンと言えども自然には発生しねえ」

「さてどうだか。分かったところで、お前には何もできないがな」


 そう言うと、男は血の入った小瓶を高々と掲げた。

 彼はそのまま、歌劇を思わせる朗々とした声で言う。


「この血を飲めば、お前は一時的に完全な竜となる。私の見立てだと、その力は普段のお前の十倍にはなるだろう。暴力の快感に酔いしれるがいい」

「そうなったら、まずてめえを食い殺す」

「ははは、それは恐ろしい。だが、血の力で竜になるまでは半日ほどの猶予があるからな。それだけあれば、お前の手の届かぬところまで逃げるのは容易なことだ」


 男はローブに手を掛けると、一気にそれを脱ぎ捨てた。

 たちまち、金髪碧眼の線が細いエルフ男が現れる。

 だがその姿が、みるみるうちに変化し始めた。


「翼持ちかよ」


 やがて男の背中には、巨大な黒い翼が生えた。

 魔人族の中でも、高位の者にのみ宿る異形である。

 この翼があるならば、いくらシェグレンが竜に変異しても逃げることぐらいは容易であろう。

 悔しげな顔をするシェグレンの一方で、男は余裕たっぷりに笑う。

 

「さあ、そろそろ飲んでもらおう。心配せずとも良い、吸血鬼の血は意外と美味だというぞ」

「誰がそんなものを……かはっ!!」


 抵抗しようとシェグレンが口を閉じると、男は彼の鼻を手で塞いでしまった。

 溜まらず息が出来なくなったシェグレンが口を開くと、そこへすかさず血の入った小瓶が突っ込まれた。

 たちまち血が口の中へと流れ込み、喉が焼ける。

 それはさながら、溶けた金属でも飲まされているような感覚であった。


「うぐぉっ!! がぁっ!!」


 もだえ苦しむシェグレン。

 両手両足を縛られたまま、打ち上げられた魚のようにのたうち回る。

 そんな彼の口に男は布を噛ませると、そのままためらうことなく部屋を後にした。

 背中にあった黒い翼はいつの間にか消えて、その姿は街を訪れているほかのエルフと変わらなくなる。


「おや、冒険者さんですか?」

「ええ。少し道に迷ってしまって。宿はどこですか?」

「あちらですよ」


 唐突に声をかけてきた街のコボルトにもそつなく応対しながら、その場から立ち去っていく男。

 街の住民が脅威に気付くのは、まだ少しだけ先のことであった――。

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