第2話

 二日前に、海凪さんという男性と裏路地で出会った。


 あの後、私は家に帰った。気まずくて本当は帰りたくなかった。けれど、お金を持っていないことに気付き、仕方がなく帰路に着いた。家に着くと、母が鬼のような形相で出迎えてくれた。


 ギャーギャーなにか喚いていたけれど、私は反論もせずただ謝り続けた。言い争うだけ疲れるから。娘を心配する優しい母親を演じてるだけ。本当は、私がどうなろうがどうでもいいんだ。そう一度でも思ってしまうと、母の言葉が私の胸に届かない。耳障りな雑音にしか聞こえなくなる。


 母親の説教が終わり、私は部屋に入る。数時間後、お風呂とご飯に呼ばれたけれど、私はそれを拒否した。動きたくなかった。母の顔を見たくなかった。その日、私は意識を飛ばすようにして眠った。


 翌朝、学校に行くまでにシャワーを浴びた。流石に、一日洗っていない身体のまま、学校へ行くのは衛生的にどうかと思ったから。


「それじゃ、行ってきます」


 朝ごはんもろくに食べないまま、私は作ってもらったお弁当を手にし、家を出た。


 その日も、いつもと変わらず地獄のような学校生活だった。早く卒業したい。それ以外に思うことなんてない。


 私の通う学校は中高一貫校だ。本来であれば、高校受験をする必要は無い。そのままエスカレーター式で行くことが出来る。


 けど――


 中学を卒業して、また三年間この地獄を耐えなければならないのか……


 それを考えると、受験しようと思ってしまう。


 けれど、残念ながら私は頭が良くない。今から受験勉強をしても遅いだろう。変に勉強をして絶望するくらいなら、この生活を続けて絶望していた方がまだいい。二回も絶望する必要はない。


「…………」


 その日のいじめを耐え抜いた私は、HRが終わるのと同時に、教室を後にした。呼び出される前に出たから、きっと明日報復されるだろう。


 だけど、私は早いうちにやらなければならないことがある。


「昨日会った海凪さんに謝らないと」


 待ち合わせなんてしていない。今現在どこにいるかも分からないのに、会えることだけを信じて、学校を飛び出した。



「――まあ、そう簡単に会えるはずないよね」


 キョロキョロと辺りを見回す。そこは、昨日出会った路地裏。


 毎回こんな煙たい所にいるはずない。

 それは分かっている。それでも、少しだけ期待してしまう。


「昨日会ったばかりなのに……変なの」


 自分がおかしなことをしている自覚はある。辛い思いはもうしたくない。裏切られたくない。そう思う。それでも、私の味方だと言ってくれた彼のことを……私と同じくこの世界に絶望していると言っていた彼のことを……信じたいと思った。


 私は鞄から、一枚の紙を取り出す。ジッとそれを見つめる。


「海凪風優人……さん。探偵って書いてある……きっと優しい探偵さんだ」


 その紙は、昨日海凪さんに渡された名刺。そこには名前と共に彼の職業も記されていた。これが本当ならだけど。


『何かあったら連絡して』


 彼のそんな優しい言葉に甘えようとしている。こちらがそのつもりでも、向こうはその場しのぎの言葉だったかもしれないのに。手が震える。きっと、拒絶されるのが怖いのだ。また人を信じて裏切られるのが……怖い。


「…………」


 そもそも、私は彼の名前や連絡先を知っている。この紙に書いてあることが正しければ。けれど、彼は知らない。私の連絡先はおろか、名前も。教えていないから。


 そんな状態で、突然電話をかけたとしても、きっと気付かない。


「やめておこう。昨日出会ったばかりの人に縋るのは良くない」


 謝罪をするため。それは建前。本音は違う。もう……疲れてしまった。学校という地獄のような場所で自分を殺して生きていくことが。だから、誰かに否定してもらいたかった。私のせいではないと。いじめられる理由がたとえあったとしても、その行為は行われてはいけないことだと。


「……そんなこと言ってくれる人はいないって、母親から学んだはずなのになぁ……」


 ポタリ、と地面に一粒の雫が落ちる。

 ふと上を見上げる。雨は降っていない。口元に塩っぱい何かが垂れる。それで気付いた。


「ああ、涙か」


 こんな薄暗い場所にいるからだろうか。不思議と涙を零していた。


「……帰ろう」


 私は路地裏を出た。表通りに出て少し歩いたその時――


「あれ、君は……」


 後ろから声が聞こえ、思わず振り返る。


「え、あなたは……」


 そこには、探していた海凪さんがいた。突然のことに驚いて固まってしまう。


「こんな所で奇遇だね。もしかして、また路地裏にいた?」


「いました……」


「あはは。君は本当にあそこが好きだね」


 いや、別に好きで来たわけじゃないんだけど……


 心の中でそんなことを思った。


「けど……本当に気を付けた方がいいよ。君みたいに可愛い子があんな所にいたら、悪い人に襲われちゃうよ」


「そ、んなこと……ないと思いますけど」


「そんなことあるんだよ。大人って何考えているか分からないからね」


「子どもも分からないですけど」


「まあ、確かにね」


 彼はカラカラと笑う。愉快な人だな……そんな失礼なことを思ったりする。


「そういえば、路地裏から出てきたみたいだけど、何かあったのかい?」


 私の心の中を見破られたような気がして、ドキン、と鼓動が鳴る。


「えっ……いや、別に……」


「でも、ただ好きなだけでいたわけじゃないんだろう? その表情を見るに、何かあったと思うんだけど……違ったかい?」


「…………」


 これが探偵の観察力だろうか。全てを見透かされている気がしてたまらない。


「僕でよければ相談に乗るよ?」


「えっ……」


 思わぬ提案に、私は驚いてしまう。きっと、私が何も言えなかったからだ。昨日会ったばかりでも分かる。彼は優しい人だ。だから、自分の意見ひとつさえまともに言えない私を気遣って――


「別に無理しなくていいんだよ。迷惑だったら別に……」


「――!迷惑だなんて! そんなことないです!」


 予想以上に大きな声が出た。彼は驚いたように目を丸くした。けれど、自分でも驚いてしまった。大きな声を出すことは……得意では無いから。陰キャ特有のやつかもしれない。


 彼はしばらく驚いた顔をしていたが、やがて「そう……?」と少しだけ嬉しそうにした。


「けど……むしろ迷惑じゃないですか?お仕事だってあるでしょうし……」


「うん?大丈夫だよ。今仕事終わって帰るだけだったから」


「本当に……いいんですか?」


 私は再度確認した。人間は本心を隠す生き物だ。本当は嫌だと思っているかも――


 けれど、そんな私の悪い考えは杞憂に終わる。


「本当に平気だよ。それに、連絡先……強引に渡しただろう? いつでも頼っておくれ」


 私は彼のことを見る。人の嘘を見続けてきた人だったら、きっと瞳をみただけで嘘か本当か分かるのだろう。


 けれど、私には分からない。私にそんな能力はない。だから――


「えっと、それじゃあ……よろしくお願いします」


 彼のことを信じることにした。これで裏切られたら、本当の意味で生きることを諦めよう。そう、密かに心に誓いながら。


 彼は私の返事を聞くと、少し嬉しそうにはにかんだ。


「うん、こちらこそよろしく。それじゃあ、行こうか、澪ちゃん」


 ――え、どうして……


「うん? どうかした?」


「いえ……」


 私は首を横に振る。それに触れてはいけない気がした。それに自分から触れてしまったら、たった数秒前に誓ったことを、実行しないといけないような気がしたから。


「近くに喫茶店があるんだ。丁度お昼の時間だし、そこならゆっくり出来ると思う」


「分かりました」


 私は抱いた疑問を頭の隅に寄せ、彼の隣に並んで喫茶店を目指した。

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