バームクーヘン病院の軌跡

いちはじめ

バームクーヘン病院の奇跡

 背の高いやせた白衣の男が、両手をポケットに突っ込んだまま、病院の三階の廊下をゆっくりと歩いている。頬はコケ、目は落ちくぼみ全体に倦怠感が漂っているが、その足取りはしっかりしていた。しかし不思議なことに、行き交う他の医師や看護師は、まるで彼の存在が目に入っていないかのようだった。


 ――まったくもってここの廊下は歩きづらい。


 男は心の中で悪態をついた。

 三階建てのこの病院は、円形で内側が診察室や病室、そしてその外側を廊下が取り囲む作りになっている。だから廊下を歩くときは常に少しずつ内側に向きを変えていかなければならないのだ。これは病室に出入りする患者やその家族がほかの者の目に晒されにくいように配慮された結果だという。そして九十度ごとに四つの区画に区切られた建物は、上空から見ると切り分けられたバームクーヘンそのもので、世間ではバームクーヘン病院と呼ばれていた。


 その廊下をしばらく歩いていた男は、ある病室の前で立ち止まった。そして入口に掲示された名前を確認すると、ノックをしてスライドドアを静かに開けた。

 一人のニット帽をかぶった少女がベッドの背もたれを起こして本を読んでいた。やせこけてはいるが顔立ちが整った美少女で、皮肉にも生気のない陶器のような白い肌がその美しさを際立たせていた。

 彼女は誰かが入ってきたことに気付くと、小首をかしげて男を見た。


「あれ? 回診の時間じゃないし、いつもの先生でもない……」


「ああ。私は医師ではないがこの病院の関係者だ」


「そうなんですか。じゃあ、新しいメンタルケアの先生?」


「ま、そういった類の者だ」


「そう……、ですか……」


 メンタルケアには期待していないのか少女の表情は、すぐさま落胆の影に覆われた。

 男への興味を失った少女は、本をサイドテーブルに置き、そしてゆっくりと窓の外に視線を移した。

 この病院では、建物の特性上どの病室からも中庭が見える。そこには四季折々に患者を楽しませてくれる、これまた円形状に作りこまれた花壇があり、その中心、つまりはこの病院の中心には一本の老木が立っていた。

 その木はこの病院の前身である診療所の頃に植えられたもので、かれこれ百年近く経っているという。かつては日の光にキラキラと輝く青々とした葉を生い茂らせていたが、年々その勢いが衰え、今年は晩春だというのにまだ一つの若葉も芽吹いておらず、枯れ枝を晒していた。


「私はあの木と同じ……」


 窓の外を見つめたまま、少女は寂しそうにつぶやいた。


「君はあの木に自身の命を重ねているみたいだけど、老木と君では全く釣り合っていないんじゃないかな」


 男はゆっくりと窓辺に近づいて、少女と同じように中庭をのぞき込んだ。


「弱々しいけど、毎年頑張って緑の葉をつけていたの。だから私も頑張ろうって……」


 少女は三年前からここに入院している。


「でも今年は……。やっぱり死んじゃうのかな」


「ああ、そうだね」と男は事もなげに相槌を打った。


 予想外の男の言葉に、少女は「えっ」と小さな声を上げ、男を見つめた。


「君の予感は当たっているよ」


「……」


 少女は両の手で顔を覆い、しくしくと泣き始めた。男は一つ大きなため息をつき、そして少女に語り掛けた。


「死ぬのは怖いかい?」


「……怖くない人っているの?」


「僕の経験上ではいなかったなあ。だから安心して」


「なにそれ。慰めにもなっていませんけど」


 少女は小さく笑った。その笑顔は、病魔に侵される前の少女がどれほど美しかったのかを容易に想像させた。


「でも痛いのや辛いのは嫌だな」


 少女はこれまで辛い治療に耐えてきたのだ。


「そこで提案だ」


 そう言うと男は、窓辺から少女の横たわるベッド脇にある丸椅子に腰かけた。


「君の魂を僕にくれるなら、一つだけ君の願いを叶えてあげられるんだが、どうする?」


 男の唐突な申し出に、目を丸くした少女はしばらく押し黙っていた。


 晩春の風がカーテンをひらりと揺らした。


「それがメンタルケアなの?」


「そう、一つ願いを叶えてあげることによって死への恐怖を取り除いてあげているのさ。それが私の仕事なんだ」


「だから病院で死にかけの人を探しているのね」


「まぁ、魂は生きている人からむしり取るわけにはいかないからね。それと私は美しい魂を専門にしているんだ」


「それって、私が美しいってこと? それとも私の魂が美しいってこと?」


 男はちょっと困った顔を見せた。それを見て少女はうふふと嬉しそうに笑った。


「あなたが何者なのか詮索はしませんが、もしそれが本当ならお願いしたいことがあります」


 普通なら悪い冗談と怒り出してもよさそうなものだが、少女は真直ぐ男の目を見ている。

 男は無言でその次の言葉を促した。


「もう一度あの大木を新緑の若葉でいっぱいにしてください」


 男にとってこれは予想外の願いだった。


「そんな願いでいいのかい。痛みや辛さを感じないようにすることもできるんだよ」


「それも考えたんだけど、それだとかえって死ねなくなるんじゃないかって思って」


 これには男も思わず笑ってしまった。こんな難病に罹らなければ、聡明な女性に育ち、素敵な人生を送れたであろうに。


「気に入った。契約成立だ。その願い叶えてあげよう」



 病院の中庭の朽ちかけた大木に、突然瑞々しい新緑が戻ったその日、一人の少女がひっそりと息を引き取った。

 この突然の出来事は、バームクーヘン病院の奇跡としてネットやニュースでも大きく取り上げられた。

 病室のどの窓からも見えるこの奇跡は、病に苦しむ多くの入院患者を勇気づけ、実際に病状が改善する者が続出した。

 大木に我が身を重ねていた患者は少女だけではなかったのだ。


「やれやれ、大した娘だ。こうなることを見越していたのかは分からんがな。おかげで俺はしばらく開店休業だな」


 男は大きくため息をつくと、緑が生い茂った大木を見上げた。初夏の日差しが梢から男の顔に零れ落ち、男はたまらず片手でそれを遮った。


「やっぱり俺には暗がりがお似合いのようだ」


 そうつぶやいた男の姿は、木漏れ日が描いたまだら模様の影の中に消えていった。

(了)

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