第7話 マリ、玻璃の館に住み始める
この怒りはわたしのもの?それともマリーさんのもの?今、一瞬、心臓がはねた気がする……。
不快な感じではない。体中に血がかけめぐり、ついに言ってやったぞ!とさけんでいるかのようだ。
「な、何を言って……!」
アルデンヌ男爵は酸欠の金魚のように口をパクパクさせ、今にも怒りを爆発させるところだった。
パチパチパチパチ!
だが、そこで拍手が起こった。
「だれだっ!?」
アルデンヌ男爵が見ると、ギョッ!とする光景がそこにはあった。
妻のシモーヌが、涙を流しながら拍手をしていたのである。
「私っ、感動しましたわ……!」
ポカンとしている夫は放っておいて、シモーヌはマリに近づいていく。
そして、マリの手を取った。
「あなたのような人を待っていたのです!そうよねっ!よく言ってくれたわ!私たちは、自分で自分の幸せを選んでいいのよねっ!」
「はあ」
「ああっ!なんてことっ!今までの非礼をわびるわ!ごめんなさい!あやまって許されることじゃないけれど、それでもあやまらせてちょうだいっ!」
「はあ」
「私、あなたを応援しますわっ!あなたの生き方を!」
「シ、シモーヌ……?」
アルデンヌ男爵はまたもや話についていけず、今度は青い顔をしてポカンとするばかりだった。
「ごめんなさいね」
青空の下、シモーヌはハンカチを目元にあてながら言う。若手のイケメン舞台俳優のような従者が、シモーネのとなりで大きなパラソルをさしている。
「いえ」
マリは目の前のさびついた大きな門を見上げている。長く開かれていないからだろう、門にはツタがからみついていた。
結局あの後、シモーヌとアルデンヌ男爵は、マリをめぐって、マリそっちのけで大ゲンカをすることになった。
「王子にあやまらせるべきよ!」と主張するシモーヌに対し、「そんなことできるかっ!」とアルデンヌ男爵は吠えた。
さすがに家の存亡に関わることとなると、尻にしかれているはずのアルデンヌ男爵も起き上がるらしく、シモーヌに対しても「マリーをすぐに第一王子に引き渡し、こちらがあやまるべきだ!」と主張した。
それでもマリが引き渡されずにすんだのは、シモーヌががんばってくれたからだった。
「ああ……!いくら王子に引き渡さないがためとはいえ、こんなところに住まわせて反省の意を示させるだなんて、我が夫があんなにもガンコで非情な人だとは思いませんでしたわ……!憎い……!」
シモーヌはハンカチをかみちぎった。
(じょうぶな歯……)
マリはシモーヌの様子をちらりと見る。
「お付きのものも一切付けることを許さないだなんて……!そのうえ、この“玻璃の館”には幽霊が夜毎パーティを開いているというおそろしい場所ですのよっ……!」
シモーヌがマリの手を取り、涙ながらにうったえた。本人には悪気がないらしい。マリはそこにひとりで住むことになるのだが。
「はあ」
マリはその“玻璃の館”をあおぎ見た。
あおぎ見るほどには巨大だった。年代物の洋館で、ミステリー小説に出てきそうな不気味な雰囲気がにじみでている。
屋根裏部屋の窓がステンドグラスであることから玻璃(グラス)の宮と呼ばれているのだろう。
在りし日は、きっと玻璃の館と呼ばれるにふさわしい華やかな場所だったのだろうが、今ではすっかりさびれていた。
「庭も何もかもが荒れ放題……!だのに、ごめんなさいね、一切の手伝いをしてはならぬって命令されているのよ……。それが王子に引き渡さない条件だって……!キー!ムカつくわっ!」
シモーヌは怒りに任せて門のツタをブチブチとちぎる。
「お、奥様、手伝いをなさるとだんな様に報告しなければなりませぬゆえ……!」
見はり役の従者が言うのを「うるっさいわね!ムカつくから八つ当たりしてるだけよっ!」とシモーヌは怒る。
「マリー!ほんっとうにごめんなさいね……!応援するって言ったばかりなのに、こんなふがいなくて……!せめて、これを受け取ってちょうだいね……!」
シモーヌは二枚目のハンカチを従者から受け取って涙をふき、パチンと指をスナップした。
すると、うしろにずらりとひかえていた荷馬車のカバーが、舞台俳優のような従者たちによって、一気に取り外される。
荷台には、ベッドや食料品などの生活用具一式がつめこまれていた。
「な、なりませぬぞっ!奥様……!」
見はり役の従者がアワを食って注意した。
どうやらここに大勢いる従者のなかで、彼ひとりだけがアルデンヌ男爵側の従者らしい。そういえば、ひとりだけおじさんだ。ほかの従者はみんな若い。
「私のかわいいあなた達!馬車になぜかつまれていた新生活に必要な荷物の一切合切を、玻璃の館にすてておしまいなさい!なるべく丁重に!使いやすい配置でっ!」
ウッース!と若くて健康的な男子たちが、ベッドやらなにやらをかついで玻璃の館へと入っていった。体をはって止めようとした男爵側の従者をはじき飛ばして。
「ぐっはあああああ!」
「すてるにしたって気品が大事よっ!なるべく周りをきれいにそうじしてから、すてなさい!いいわねっ!?」
ウッース!
玻璃の館の内部から元気のいい声がひびき渡る。
かくして、マリの新しい住居は整えられたのであった。
「じゃあ、また食べ物とかすてに来ますから、強く生きるんですよっ!ほらっ、ジャン!いつまで寝てるの?行くわよ!」
「うう……はいぃ……!」
アルデンヌ男爵側の従者はジャンというらしく、体をふるわせながらも立ち上がろうとする。
「もう!グズね!」
シモーヌはジャンにかたを貸し、馬車の荷台に乗せるのを手伝ってやっていた。
「うう、奥様……、申し訳ありませぬ……」
「いいのよ……。あなたにはアルデンヌ家に嫁いで以来、お世話になりっぱなしだものね……!」
「お、奥様っ!」
ジャンの瞳に涙がうかんだ。シモーヌの命令ではじき飛ばされたようなものだが、そんなことは問題にならないほど、ふたりの関係には浅からぬ歴史があるらしい。
「でも、それとこれとは話が別!いいこと?あんたよけいなことを夫に告げ口したら許さないわよ!?」
「お、奥様……!?」
「いいわねっ!?」
「はいぃ……」
どうやら万事まるくおさまったようだ。
「……シモーヌさん」
マリが、馬車に乗りこもうとしているシモーヌの背に声をかけた。
「いろいろと、ありがとうございました」
マリは無表情のままだったが、おじぎをしてお礼を言った。
シモーヌは初めて見る仕草におどろいていたが、やがてうれしそうにほほ笑んだ。
「ふふっ、いつか一緒に観劇に行きましょう!それじゃあ、しゅっぱーつ!」
シモーヌは舞台女優のように大げさに合図を出してみせる。
ウッース!
元気の良い若者従者たちの声がひびく。
馬車は砂ぼこりをあげて去っていった。
「ふぅ」
マリは玻璃の館のなかをぐるりと一周見て回ると、小さく声を出して、ベッドに寝転がった。
玻璃の館の寝室に、新しく運びこまれたベッドだ。枕も新品でふかふかで、ベッドのそばには新品のラグマットまでしいてある。
なんだかものすごくラッキー。ちょっと、こわいくらいかも。まあ、場所はよりによってって感じ……だ……けど……。
マリはつかれていたのか、いつの間にか寝てしまった。無理もなかった。いくら体力のある体とはいえ、これだけ多くの人と一気に関わるのはめったにないことで、マリの精神はつかれていた。
夢を見た。
玻璃の館のステンドグラスがはめこまれた屋根裏部屋。
マリーはある男に抱きしめられている。
ステンドグラスからさしこむ月明かりが、マリーの顔をバラバラの色に染めている。
人形のように冷たくなった表情から、マリーは一筋の涙を流していた。
「はっ!?」
マリは悪夢から覚め、飛び起きた。
同時に気づく。
(―――だれかいる!)
外は暗く、もう夜だった。
窓が開いていて、風が部屋のなかへ入って来ている。
風にゆられるカーテンの向こうに、見知らぬ男が立っていた。
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