空中ブランコのベル

@marucho

第1話

 空中ブランコのベルといえば、この街で知らぬものはいない。


 その魅力は、彼女にしかできない四回転半宙返り。

 そして、重力を感じさせない軽やかな身のこなし。

 小悪魔っぽい大きな猫目のつくるほほ笑みが、演技にそっと華を添える。

 しかし、これらはすべて、ほとんどどうでもいいことだ。

 ちょっと難しい技ができるとか、アイドルのように可愛い見た目であるなんてことは、彼女のすべてのほんの一部にすぎない。


「ベルという芸名が、手首に鈴をつけてブランコに乗るスタイルから来ているのは知っていると思うが、そうするようアドバイスしたのは、実は私なんだ」


 髭面の団長は小鼻を膨らませる。金持ちが宝石を見せびらかすような言いぶりだと、ぼくは思った。


「ブランコに乗ってリンリン、跳躍してキャララ、着地すればシャン。ベルが動くたびに鈴が鳴ってきれいだろう? 空中ブランコっていうのは基本的に目に訴える曲芸なわけだけど、こうすれば耳でも楽しめる。ラジオ放送もどんとこいだ」


 なおも続く団長の言葉を聞きつつ、ぼくは周囲にカメラを向けた。

 開場前のサーカスは、そこかしこでリハーサルが行われ騒がしい。猛獣たちの雄たけびに、エンジンをふかしたバイク、バク転するピエロ。誰もが準備に余念がない。

『ステージで披露される華麗な曲芸は、入念な練習に裏打ちされている』記事にしたときのあおりはこんな感じでどうだろう。

 団長は話をやめると、「取材ならば私のことも忘れないでおくれよ」とやけに張り切ってポーズをとった。

 あとは、空中ブランコのベルの写真があれば完璧なのだけれど。

 そのことを告げると、団長はふん、とやはり高価なおもちゃを自慢する子供のように鼻を鳴らした。


「まあ、あれは難しいからね。撮れるものなら、撮ってみるといい」


 ほらごらん、と団長はテントのてっぺん近くを指さした。

 天井から細い二本のピアノ線が、ゆっくりと降りてきた。

 線の間にはバーが一本。空中ブランコだ。


「ベルのお出ましだ」


 ブランコ近くの足場には、レオタード姿のベルがすでに待機していた。ぼくは慌ててカメラを構えた。

 しん、と会場が静まり返る。

 一座の仲間たちですらも、手をとめて一挙一動に注目していた。

 ベルが今、腕を上げた。バーをつかむ。何気ない日常の一瞬のような仕草だった。

 そして、空中を歩くかのように足場から一歩踏み出すと、ベルとブランコは、振り子運動を始めた。鈴の音が響く。

 弧を描くような音だ。見えるはずなどないのに、そう思う。

 揺れるブランコは、往復のたびに高さと速度を増していった。これ以上は無理だろう、という高さまで到達したところで、ベルは身体を大きくしならせた。

 いよいよ集中して、カメラのファインダーを覗き込む。

 そして、最高点に達した瞬間、ベルはバーから手を離した。

 黒子の待機するブランコへ飛び移るのだ。

 ほうりだされた身体は慣性に従い、宙返りしながら上へ上へ。それはどこから落下にも似ていた。

 放物線が頂点に達したとき、ぼくはシャッターを切った。

 あっという間のことだった。

 衣装に縫い付けられたスパンコールの残像がまぶしい。


「撮れたかい?」

 団長はぼくのカメラを覗き込んだ。分かりきっているくせに。

「いいえ」

 ぼくの撮った写真にベルはいない。暗幕の虚空ばかりを写していた。

「そうだろう」と笑う団長の小鼻は、やはりぷっくりと膨らんでいた。


空中ブランコのベルは、けして写真に写らない。


 それは有名人によくあるパパラッチ嫌いとか、そういうことではない。

 どういうわけだか分からないが、ベルの美しい空中浮遊を写真に収めようとしても、ぽっかりそこだけ空いてしまうのだ。

 こんな風にね。

 仕事帰りの電車の中、暗幕だけが写る写真を、ぼくはじっと見つめていた。

 一見すれば何の変哲もない失敗写真である。ポートレートを撮る予定が、レンズがとんちんかんな方に向いてしまい、ただ背景の海だけが映る写真になってしまった、という失敗はありがちだ。

 この写真もありふれた失敗の一種なのだが、強烈な違和感を放っている。どうしてもただの暗幕の写真に見えないのだ。

 その正体は、不在感だ。

 ここにあるはずのものがない。いるはずの人がいない。

 あのとき間違いなく、彼女はぼくの目の前で宙返りをしていたのに、その姿は残像すらも捉えられていないのだ。

 いったいどういう理屈なのだろう。

 電車は駅をいくつも通り過ぎ、乗客を吐き出していく。

 目的地に近づいているのか、遠ざかっているのかも考えることもせず、例の写真を取り込んだスマートフォンで画像をズームしたり、色味を変えてみたりもした。

 そうしていれば、ベルの秘密が暴けるんじゃないかと思ったからだ。


 画面にぬっと人影が現れたのは、そのときだった。

「ねえ、降りないの?」

 知らない人間に話しかけるには、ぶしつけすぎる言葉だった。普段なら危ないヤツと認定して、無視をするか、そっと離れたことだろう。

 けれど、このときのぼくはどちらも選ばなかった。

 それはぼくの知っている人だったからだ。正確には、見たことのある人。

「この電車、車庫に行っちゃうわよ」

 人影はふたたび口を開く。ものおじしない、怖いものしらずの声色だ。

 ぼくといえば、あっけにとられて、こんなどうしようもない言葉しか出てこない。

「サーカスは……?」

「いきなりそれ?」

 空中ブランコのベルは、顔をくしゃっとさせた。

「今日は休演日よ。私も団長と出かけていたのだけど、退屈だからおいてきちゃった。自慢話ばかりなのよ、あの人」

 そう言うと、ベルは音もなくぼくの隣に身体をすべりこませた。長い脚を華奢なヒールが飾っている。

「きみ、あのときのカメラマンでしょ」

「覚えているの?」

「そんなにじっと写真を見ていたら、分かるわよ」

 ぼくが恥ずかしくなって下を向くと、ベルは「気にしなくていいよ」と言った。「よくあることだし」

 終点を過ぎた電車はどこにも止まらず、ぼくらだけを乗せてどんどん進む。乗り込んだときにあんなにいた乗客はみんな、どこかで降りてしまった。

 置き去りにされた気分だ。

「誰もいない電車って好き。貸し切りみたいじゃない」

 ほら、こんなこともできるし、とベルは大きく手足を広げてみせた。ブラウスの裾がはだけて、やわらかそうな下腹がのぞく。青い血管が透けた白い肌は、触れてもすり抜けてしまいそうなくらい実感がない。

「はしたないよ」と言うと、「ピュアねえ」とあしらわれてしまった。

「そういうこと言いそうな人だと思っていた」

「慣れていないんだよ。あいにく経験は多い方じゃない」

「悪い意味じゃないわ。そういう人、好き」

 これ以上何か言い返すと、かえって墓穴を掘ってしまうような気がして、ぼくは押し黙った。

 ベルはますます嬉しそうにしていた。

「ねえ」と聞かれる。最初に話しかけたときみたいに、ぶしつけに。

「今夜はお暇?」

「はしたないよ」と言う前に、ぼくの唇には人差し指を押し当てられた。

 返事はいらない。きみの言いたいことなんて、全部お見通しなのよ。


 電車が車庫に到着すると、ぼくらは一緒に車掌に怒られ、外に出た。仕事を終えたときには夕闇だった空は、いつの間にか完全に夜のものになっていた。

 駅からすぐ近くの、偶然にもキャンセルが出たという洋食屋で、ぼくらは恋人同士みたいに食事をし、その場で一番安い酒を飲み、同じシーツの中に潜り込んだ。


 ぼくがベルにその真意をたずねたのは、明け方近くになってからのことだった。

「いつもこうなの?」

「きみは正直者ねえ」とベルは笑った。

「よく言われる」

 同じ理由で前の彼女には愛想をつかされたばかりだった。

 ベルはほっそりした脚を組みかえながら、煙草に火をつけた。「そう思われても仕方がないわね」遠い国の銘柄のようで、シナモンみたいな甘い香りがした。

「でも、いつでもじゃないわ。大胆になるのは、気に入った相手だけ」

「ぼくのこと、気に入ったの? どうして?」

 ベルは「本当、正直ねえ」とくすくすと笑った。

 安っぽいホテルの照明の下なのに、映画のように決まって見える。

 彼女の手にかかれば、洗いざらしのシーツですらも、舞台に上がる衣装みたいだ。

「それはきみが、とっても素直だからよ」

 そうでしょう?

 ベルはまた、ぼくの唇に人差し指をおしつけた。


 空中ブランコのベルは、誰にだって口答えを許さない。


「最近では、空中ブランコのベルなんてものが流行っているようですけどね、あんなもの、まやかしですよ。見なくても分かる」

 火曜日のワイドショーで、ある評論家が言った。

「そもそも写真や動画に写らないっていうのもトリックに違いありません。何もない場所を撮って、これがベルだと言えばいい。ろくに記録が出回らないせいで、記憶に美化がかかるでしょう。所詮三流山師です」


 ベルはそれを自らに対する挑戦と受け取った。

「そんなに言うなら、見てごらん。私が一流であることをその目で確認なさい」

 評論家に一週間後のソワレのチケットを用意する。指定された座席は、最前列のセンターだ。

「光の下につまびらかにされるなんて、三流のすることでしょう?」


 元ラガーマンだという大きな彼の、ふんぞり返った姿を見ても、ベルは少しも気負わない。

 真っ赤なレオタードに身をつつみ、手首には鈴をつけ、舞台に立つだけだ。


「今、この瞬間が楽しむこと。それが良い演技をするコツ」

 打ち合わせや取材で、どうしても固くなってしまうぼくに、ベルはそんな風に教えてくれた。

 けれど、この言葉とは裏腹に、ベルの体が描く放物線はいつだって黄金比のとおりで、永遠の完璧さを秘めていた。鈴が鳴る。


「今日も素晴らしかったよ」

 あの日からぼくは、楽屋に入ることを許されていた。閉演後に花束を持って駆け付けると、ベルはいつも喜んでくれた。

 団長はいい顔をしなかったけれど。


 次の週の火曜日、生放送のワイドショーで、評論家はまず、最初に謝った。

「技術、演出、ほほ笑み。彼女の演技はどれをとっても一級品だった。まやかしなんてとんでもない。あれは見るべきものですよ」

 感じ入るように目をつむる。

「鈴の音が今も耳を離れない。夢みたいな時間をありがとう」


 ベルと評論家の勝負が白熱していたころ、一方のぼくは、団長に呼び出されていた。

「この喫茶店、いいだろう? まだ煙草が吸えるんだ。それにコーヒーがうまい。きみの分も頼もう」

 ぼくの気のない「はあ…」という返事を肯定と受け取ったのか、団長はウェイトレスを呼んだ。

 マグカップにたっぷり入ったコーヒーがやってくる。どちらもブラックだ。飲めない。砂糖があればどうにかなるが、要求する気にもなれなかった。

 団長は苦いであろう黒い汁を一口すする。

「さて、今回きみに来てもらったのはだね」

 そらきたぞ。

 楽屋に出入りしていることを咎められると思っていたから、ぼくはすっかり緊張していた。

 しかし、団長の口にした言葉はまるっきり予想外のものだった。

「ベルの写真を撮ってやってほしいんだ」

 ぼくは顔を上げる。

「写真って……ベルはでも……」

「分かっている。分かっているが、まず聞いてくれ」

 動揺するぼくを手で制して、ベルについて語り始めた。

「パフォーマーの人生はね、大きな放物線を描く。日を追うごとに上達していく時期が、ある日を境に下降に転じるんだ。昨日はできたはずの技ができない、バイクを駆る力が落ちている、なんて具合に。私の見立てでは、もうすぐベルは、頂点から追われるだろう」

 かなしいことだがね、と団長は続けた。

「鈴の音だけじゃたりない。きれいなうちにきれいなままで残してやりたいんだ」

 報酬として提示された額は今まで見たこともないような数字だった。タウン誌所属の木っ端カメラマンに払う額ではない。

「どうしてぼくなんですか」

 ぼくはまた余計なことを言った。前の前の彼女にはそれが理由で捨てられたのだった。

「ベルもあんたなら、と言っているんだ」

 団長は、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

 ぼくが迷いなく引き受けた。

 

 しかし、これは団長への意趣返しでも、ましてや金額に目がくらんだからではない。

 ベルがぼくの耳元でささやいたからだ。

「ねえ、私を撮りたくない?」

 共に朝を迎えた日、ベッドの上で寝ころんだまま、ベルは秘密を明かすみたいに言った。

「けして写真に写らない空中ブランコの乙女、これを撮れたら雑誌記者なんてしょっぱい仕事辞められるわよ」

「何言っているんだい。それが無茶なのは君が一番よく知っているだろ」

 ぼくはシャツに腕を通しながら言った。仕事があるのだ。

「無茶だからいいのよ。私だって、四回転半の宙返りをやるって言ったときには、無謀とみんなに止められたものよ。でも出来た」

「それは君だからだ」

 ベッドの上に脱ぎっぱなしになっていたスラックスを取ろうと、振り返ったときだった。

 人差し指が唇にあてられる。

「仕事だけじゃない。成功したら、今なら空中ブランコの得意な専属モデルが付いてくるわ」




 空中ブランコのベルの姿を、記録に収めたものはいない。


 せいぜいが鈴の音の録音くらいだ。

 ぼくらは今、前人未踏の偉業に挑戦しようとしている。

 団長の全面バックアップの下、スタッフが集められ、本番と同じステージが組まれる。

 ベルもまた、赤いステージ衣装に身を包み、手首に鈴をつけ、足場の上で軽く目をとじていた。

 これが挑戦であるという意識は全く見えず、リハーサルか何かのように、驚くほどいつも通りだった。

 ぼくはどうしたものだろう。正面の客席から撮ったところで写らないのは分かりきったことだ。以前に最新鋭の機器を持った研究機関が試してみたこともあったそうだが、それでもうまくいかなかった。機材には頼れない。

 そこで、ぼくは構図や画角を変えることを提案する。ブランコの真下から、足場から、着地台から、ワイヤーでつられて上からもカメラを構えた。

 もちろんこれらはうまくいかない。だが、まだ策があった。

 ドローンである。ベルの動きを追尾させて、接写の上でコマ撮りすれば、影くらいは捉えられるのではと考えたのだ。

 ぼくが身体を張るというのも一種の手だ。黒子に抱えられて、一緒に飛びながら撮影する。

 けれど、ここまでしてもベルが写真に姿を現すことはない。

 次、次、次。

 持ち込んだタブレットで、撮影したデータを即時確認し続ける。

 画面が切り替わるたびに、無力感が増すばかりだ。

 いけどもいけども、虚空ばかり。

 隣で見守る団長も落胆を隠せないようだった。

 無理もないことだ。だって、あんなに軽やかに回る女の子に、実体があるだなんて信じられないだろう?

 現場にも疲労が滲んでいる。始まったときと変わりがないのはベルだけだ。

 光明が見えたのは、もうやめようと誰かが言い出すのを待っていたときだった。

 連写した画像のうち一つに、わずかな灰色のシミが浮かんでいたのだ。

 本来ならばベルの回転が三回点目に差し掛かったところである。

 見間違いだろうか。いや、違うだろう。

「これ、影じゃないですか」

 単体では分かりづらかったが、前後の画像を比べてみると、それはあきらかにベルを映した光の跡だった。

 影がある。ということは、ベルはたしかに質量を持って存在しているのだ。

 それは写真に残すことができるという確たる証拠だ。

 画面をのぞき込んだ団長は「まいったなあ」と額に手をあてた。「これじゃ諦めきれないじゃないか」

 最後の撮影が始まったのは、外はもうとっくに日が落ちている時間になってからだ。

「スポットライトだけじゃない、バックもフロントも全部だ」

 丸一日の撮影ですっかり疲弊したスタッフたちに、団長は最後の檄を飛ばし、ありったけの光源をブランコに集めていた。

 ぼくらの考えはこうだ。

「影があるということは、実体がある。ありのままには写せなくても、シルエットならば撮れるのではないか」

 試してみる価値はある、と団長は判断した。

 ローラ付の移動式ライトが、また一つ追加された。点灯のたびに会場の温度は上がる。額から汗が流れおちる。

「これで全部です」スタッフが叫ぶ。このテントの中の光は、廊下の蛍光灯も含めて全部舞台の方を向いている。ステージは異常なまでの光に満ち、輝いていた。

「本番だ」ぼくはカメラを構える。レンズの向こうのベルは、汗一つかかない涼しい顔をしていた。

 目の端で団長がキューを出した。

 5.4.3.2.1

 足場から飛び立つ、その数瞬前だった。

 ベルと目があった。

 彼女は唇に人差し指を当てていた。

 目をそらさないで。

 ぼくがカメラから顔を上げた瞬間、ベルはブランコに飛びついた。

 飛翔にも似た永遠の落下が始まる。無数の光がぼくの目を焼いた。鈴の音が弧を描く。

 人差し指がひとりでにシャッターを切った。




 空中ブランコのベルがやることは、いつだって突然だ。


 あの撮影からすぐ、ベルは若き実業家との結婚を発表した。

 どうせそんなことだろうと、ぼくは思っていた。婚約者から同じようにフラれたことがあったからだ。

 しかし、団長は違ったようだ。

 現像した写真を渡しに事務所へ赴くと、ベランダで空を眺めていた。

「あれは私のはずだった」

 写真を渡すと、深いため息をついた。髭面のくせに、迷子の子どもみたいだ。

 見つからない誰かを、ずっと探している。

「四回転半の写真が取れたらあなただけのものになってあげる、と言われていたのだよ」

「ぼくもですよ」とは言わなかった。フラれ仲間には優しくすると決めているのだ。気の利いた慰めも言えないけれど。

 ぼくは代わりに、煙草を一本差し出した。最後に会った日にベルの鞄からくすねた、とっておきだ。

「ベルにはもう見せたかい?」

「ええ、喜んでいましたよ。とても」

 団長は煙草を受け取り、火をつけた。甘いシナモンの香りがする。雲一つない空に線香みたいな煙があがった。

「せっかく見事に撮れたのになあ」

 手にした写真を眺め、切なさそうにつぶやいた。

 そこにはありったけの光で照らされたベルの輪郭が映っていた。

 ぼくらはあの日、彼女のシルエットを捉えることに成功したのだ。

 丸々一本、煙草を吸い終えると、団長は言った。

「きれいさっぱり忘れることにするよ」

 吸い殻を手すりに押し付ける前に、写真に近づける。

 幸せな夢だった。

 紙の焦げる匂いは、シナモンよりもずっとほろ苦かった。

 四回転半の宙返りを成功させた写真の中の彼女は、炎も恐れずに永遠の落下を続けていた。

 それきり団長には会っていない。


 さて、くだんの写真であるが、今残っているのは、ぼくの手元にある一枚きりである。現像してすぐにデータは廃棄してしまった。

 いいポートフォリオになるからと公表するよう勧める人もいたけれど、しなかった。そうするに足る出来ではないと感じたからだ。

 団長は見事に撮れていると言ったけれど、ぼくにはあれは、ベルの輪郭ではなく、ぽっかり空いた穴に見えた。

 結局、ぼくらはあの姿を収めることはできなかったのではないか。無様な失敗をしてしまったのではないか。

 だからベルは姿を消してしまったのだろう。

 そんな疑問が浮かんでならない。いい歳して甘い夢を見る。もらった報酬にはびた一文も手をつけていない。

 ベル本人にはといえば、あれからすぐに実業家の夫と連れ立って遠い国に旅立ってしまった。どうしているか知るすべはない。

 今でもあの甘ったるい煙草を吸っているのだろうか。

 サーカスは新たなスターを仕立て上げ、世間の人がベルの名を口にすることはない。

 あれだけ褒めそやした評論家ですら、今は綱渡りのカチューシャに夢中だ。


 そして、ぼくは。

 今でも彼女のことを忘れられないでいる。

 ときおり写真を取り出しては、酒を飲んであの頃を思い出す。

 シナモンの煙草に火を付ければ四畳半のアパートでも、そこはサーカスの一等席だ。耳元では鈴の音が弧を描く。




 空中ブランコのベルのことを、覚えている人はもういない。

 ぼくのほかには。だれも。



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