糾正の燐寸

祐里〈猫部〉

1 錯誤


 瞬間湯沸かし器のスイッチを指で押す。カチ、カチ、ボッ……という音が静かな台所に響く。着火直後の薄橙うすだいだいから安定した青に色を変えた小さな炎を点火窓に見ながら湯で手を洗い、ハンドクリームの缶の蓋を開ける。白いクリームを指で取り、手全体に伸ばす。

 柔らかなハンドクリームは、やがて皮膚に浸透していった。


 ◇


――増屋ますやに話を通しました。知美ともみの卒業を待っています。


 葉書を持つ手が、アパートの扉が開く音でぴくりと震えた。

銀杏ぎんなんが落ちてきたよ」

 座布団に座ったまま音の方に顔を向けると、兄は玄関に入るなり言う。

「本当?」

「今年は学外の人も入れるから、一緒に拾いに行こう。次の日曜日がいいか」

「うん」

 兄の通う大学のイチョウ並木では、毎年秋になると多くの銀杏が落ちる。実家の近くにも似たような場所があり、子供の頃たくさん拾ってきたのが懐かしく思い出される。

「だいぶ寒くなってきたからな」

「ストーブ点ける?」

「灯油がもったいないからまだいいよ。贅沢はしない方がいい」

 兄の渋い言葉に、私は肩をすくめてみせた。私たちの家は自営業で貧乏ではないが、高校を卒業した子供二人を進学させたため、裕福とは言いがたい。

「知美が料理してくれて助かってるよ」

「料理では、兄さん役に立たないものね」

 女性が自由に生きられる世の中になりつつあると話には聞いているが、両親は時代の流れなど見ず、私を商売の道具にしようとする。高校を卒業したら増屋の家で何年か和裁を習うのよ、お見合いはそれからね、と母は言っていた。それが嫌で、私の意見に同意してくれた兄とともに、どうしても進学したいと両親を説き伏せた。そうして兄と一緒に暮らすなら短大の家政科に進んでもいいという条件で家を出ることに成功した結果が、この生活だ。

「男なんてそんなものだ」

 軽く笑い、兄は座っている私に脱いだコートを渡した。私は立ち上がると、その紺色の格子チェック柄のコートを衣紋掛えもんかけに掛け、やかんを乗せた石油ストーブの反射板を見ながら乾いた手の甲をなでた。


 ◇


「知美ちゃん、いらっしゃい」

「こんばんは、野上のがみさん。兄さんは……?」

「ああ、裏でビール瓶片付けてるよ」

 兄がアルバイトしている喫茶店は酒類や料理も出しており、閉店は夜十時だ。客層は大学生が多いそうで、大体いつも同じ面々が来るのだと兄は笑っていた。私はこの喫茶店が好きで、時々顔を出している。深い臙脂えんじ色の天鵞絨びろうど調のソファは程よい固さで座り心地が良い。

「座って待ってていいですか?」

「もちろん。何か飲む?」

「あ、いえ、何も」

 白髪交じりの店長の野上さんに返答しながら、私はカウンター近くの席に座った。家に縛られない自由な生活でも、兄が管理する生活費のことを考えると気軽に飲み物を頼むことはできない。

「おごりでいいからさ。何がいい?」

「……ええと、じゃあ、紅茶ください」

「はい、かしこまりました」

 いたずらっぽい笑顔になった野上さんにつられて表情が緩んだが、すぐに口を引き結ぶ。兄に、自分がいない場ではあまりはしゃぐなと言われているからだ。

 カウンターの端に置かれているテレビには、以前のテロ事件についての番組が映っている。大柄の男が火の点いた瓶を投げている場面で、兄の大学で起こったことではないようだ。

「ここ数ヶ月はこういう事件も聞かないね」

 実家を出て、家では見られなくなった画面をぼうっと見続けていると、野上さんに話しかけられた。

「そうなんですか。うち、テレビなくて。新聞も取ってないから、兄さんに聞いたことしかわからないんです」

「新聞くらいは読んだ方がいいと思うけどなぁ」

「兄さんが、大学の図書館で読める、家にはいらないって。古新聞もここでもらえるので」

 そう言うと野上さんは困ったように微笑んでから、テーブル席に座る私に紅茶のカップを持ってきてくれた。礼を言ってガラス製の砂糖壺から角砂糖を一つつまんで入れ、赤茶色の中で丸まっていく様をじっと見つめる。

「知美、来てたのか」

 洋風の意匠いしょうが美しいティーカップの紅茶を冷ましながら飲んでいると、カウンターの奥から兄が顔を出した。

「することがなくて、ちょっと暇だったの」

晃一こういちくん、紅茶は僕のおごりだから」

「あ、ありがとうございます。知美、よく味わって飲めよ」

「うん」

 優しい顔で仕事に戻る兄の背中を、私はテレビの画面を見るようにぼんやりと眺めた。

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