【百合小説】冥界の恋人―霧の彼方から響く声―

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:霧の彼方へ

 夏の終わりの夕暮れ、東京の喧騒が徐々に落ち着きを見せ始めた頃。麗子は仕事帰りの雑踏を抜け、疲れた足取りで自宅へと向かっていた。都会の空は茜色に染まり、高層ビルの合間から差し込む夕日が、アスファルトの上に長い影を落としている。


 麗子は信号機の前で立ち止まった。赤信号。人々の喧噪と車のエンジン音が耳に入る。ふと、風に乗って桜の香りが漂ってきた気がした。季節外れの香り。麗子は首を傾げる。


「おかしいわね……」


 信号が青に変わる。麗子は横断歩道に足を踏み出した。その瞬間だった。


 視界が突如として暗転する。耳をつんざくブレーキ音。鈍い衝撃。そして、意識が遠のいていく。最後に聞こえたのは、誰かの悲鳴だったろうか。


 ……


 目を覚ますと、そこは見知らぬ場所だった。


 霧に包まれた灰色の空間が広がっている。足元には、かすかに光る六色の筋が走っている。まるで、六道を象徴するかのような幻想的な光景。麗子は混乱し、自分の置かれた状況を理解しようともがいた。


「ここは……どこ? 私、どうなったの?」


 麗子の声は、霧の中に吸い込まれるように消えていく。周囲には何も見えない。ただ、灰色の霧だけが広がっている。


 そのとき、懐かしい声が響いてきた。


「来たのね、麗子」


 麗子は息を呑んだ。その声の主を、彼女は三年前に失っていたはずだった。


 ゆっくりと振り向く。そこには……


「紫乃……?」


 紫乃が立っていた。三年前に他界した元恋人。紫乃は優しく微笑み、麗子に手を差し伸べる。その姿は、麗子の記憶の中にある紫乃そのものだった。長い黒髪、優しさを湛えた瞳、そして柔らかな微笑み。


「ここが冥府の入り口よ。私が案内するわ」


 紫乃の声は、かすかに残響を伴っていた。まるで、現実とどこか違う世界の音のように。


 麗子は困惑しながらも、紫乃の手を取った。その手は温かく、確かな感触があった。二人は霧の中を歩き始める。


「紫乃、私……死んだの?」


 麗子の問いに、紫乃はゆっくりと首を横に振った。


「そうとも言えないわ。今のあなたは、生と死の狭間にいるの」


 紫乃は麗子に、この旅で自らの執着を見つめ、解脱することの重要性を説き始めた。


「人は皆、何かに執着している。でも、本当の自由を得るには、その執着から解放されなければならないの」


 麗子は半信半疑で紫乃の言葉に耳を傾けながら、冥府の深部へと足を踏み入れていく。霧の向こうに、何が待っているのか。麗子の心は不安と期待が入り混じった複雑な思いで満ちていた。


「変わってないわね、麗子」


 紫乃が妖艶な声で呟き、麗子の頬を撫でる。その仕草は、かつて二人が恋人同士だった頃を彷彿とさせた。


「可愛いわ……」


 紫乃の懐かしい所作に、麗子はうっとりとした。時が止まったかのような感覚。しかし、それは束の間のことだった。


 紫乃と麗子の体が、ゆっくりと近づいていく。二人の呼吸が重なり、心臓の鼓動が同調していく。周囲の霧が二人を包み込み、まるで世界が二人だけのものになったかのようだった。


 紫乃の指が麗子の頬を撫でる。その感触に、麗子は目を閉じ、深く息を吐いた。紫乃の指先から伝わる温もりが、麗子の全身に広がっていく。


「麗子……」


 紫乃の声が、かすかに震えている。その声に、麗子は目を開けた。紫乃の瞳には、深い愛情と切ない想いが混ざり合っていた。


「紫乃……」


 麗子の声も、震えていた。二人の唇が、ゆっくりと近づいていく。


 唇が触れ合った瞬間、麗子の体に電流が走ったかのような感覚が広がる。紫乃の唇は柔らかく、甘い香りがした。二人の舌が絡み合い、互いの味を確かめ合う。


 紫乃の唇が麗子の首筋に移動する。その感触に、麗子は小さく身震いした。紫乃の吐息が、麗子の肌を優しく撫でる。


「ん……」


 麗子の喉から、甘い声が漏れる。紫乃の唇が、麗子の鎖骨へと移動していく。その動きに合わせて、麗子の体が弓なりに反る。


 二人の体が重なり合う。肌と肌が触れ合い、互いの温もりを感じ合う。紫乃の手が麗子の体を撫で回し、麗子も紫乃の体を愛おしむように触れていく。


 霧に包まれた灰色の空間で、二つの魂が一つになっていく。それは単なる肉体的な結合ではなく、魂レベルでの融合だった。麗子は、自分の全てを受け入れ、そして解放していくような感覚に包まれる。


「あぁ……紫乃……」


 麗子の声が、甘く切ない響きを持つ。紫乃の動きが激しくなり、麗子の体が波打つように動く。


 二人の体から放たれる光が、周囲の霧を押し退けていく。その光は、六道の光の筋と呼応するかのように、様々な色に変化していった。


 麗子は、この瞬間が永遠に続けばいいと願った。しかし、それが叶わぬことも同時に理解していた。


 光が最高潮に達したとき、麗子の意識は再び霞み始めた。


「紫乃……」


 麗子の吐息が霧の中に溶けていく。


 二人の愛の行為は、現実世界のそれとは違っていた。より深く、より純粋で、魂そのものが触れ合うような感覚。時間の概念が失われ、ただ互いの存在だけが全てとなる。


 やがて、二人の体から放たれる光が周囲の霧を押し退けていく。その光は、六道の光の筋と呼応するかのように、様々な色に変化していった。


 麗子は、この瞬間が永遠に続けばいいと願った。しかし、それが叶わぬことも同時に理解していた。


 光が最高潮に達したとき、麗子の意識は再び霞み始めた。


「これが終わりじゃないわ、麗子」


 紫乃の声が遠くなっていく。


「旅はまだ始まったばかり……」


 麗子の意識が闇に沈んでいく中、次の旅への予感が芽生えていた。

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