ミエナイアイ

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

第1話


 お母さんは、卵を買ってくるといつも、新しい卵からコンコンパカン、と割るのです。

 そうして、数日が経ち、中途半端になった卵パックは、もともとあった卵パックに残された死蔵品とまとめられます。

 色違いの新鮮な卵と死蔵品たちは、突然、似て非なるものとともに過ごすこととなり、困惑し、互いにぶるぶると身を震わせていました。


 ぼくの一部は、賞味期限がいつだかわからない死蔵品として、冷蔵庫の奥にこもり続けていました。

 何度も新しい卵を迎えて、何度も食べられそびれていたものだから、いつからか、新しい卵がやってきても身が震えなくなっていました。

 けれど、今朝。突然、そんなぼくの一部に、手が伸びてきました。

 ついにその時がやってきた、と、ぼくの一部は久しぶりに身を震わせました。

 コンコンバリン、と殻を破って、ぼくの一部は破片と共に、ボチャンとボールに落ちました。

 カッカッカッカッという音と共に、ぼくの一部は一色になるまで目をまわしました。

 途中、しょっぱい雨が降ってきました。

 ぼくの一部は、雨をぎゅうっと抱きしめました。


 フライパンから、野菜やベーコンが焼ける匂いが漂ってきました。

 そこに、トマトの香りが加わります。

 白いご飯が、美味しそうな赤い海へ勢いよく飛び込みました。

 しばらくすると、お皿の上にこんもりと、赤いご飯が山を作りました。

 ぼくの一部は、その姿を見て、恋をしました。

「あのごはんと、一緒になりたい」と、夢を見ました。


 その夢は、現実となりました。

 バターがとろけたフライパンで焼かれたぼくの一部は、赤い山を覆う雪となったのです。

 そうして出来上がったぼくは、とてもウキウキとした気分でした。

 誰がぼくを美味しく食べてくれるんだろう?

 そう考えると、ケチャップがとろりとたれてしまうくらい、どうしてもニヤけてしまうのです。

 明るい心は暗いことを考えたりしません。

 絶対に、「美味しい」と言いながら笑顔で頬張ってもらえるものと、ぼくは信じていました。


 しばしお皿の上でニヤけるぼくを見つめたお母さんは、ぼくをそのままに、戸棚に手をかけました。

 そして、お弁当箱を持って、戻ってきました。

 お弁当箱の底にラップをしくと、ぼくをヘラで持ち上げ、お弁当箱へ詰め込みました。

 お皿にわずかに、ぼくの一部が残されていました。

 それらはお皿ごと、流しへと落ちていきました。


 蓋を閉める前、お母さんは不思議な顔でぼくのことを見つめました。

 そして、力強く蓋をのせ、ロックをかけたのです。

 訪れた暗闇の中に、さっきの不思議な顔を見ました。

 暗闇はまるでスクリーンであるかのように、不思議な顔を映し続けました。


 しばらくすると、お弁当箱が話しはじめました。

「ねぇ、こんなこと言いたくないけど」

 ぼくは不思議な顔からお弁当箱へ、意識を移しました。

 ずっと見えていた顔は薄れ、お弁当箱の模様が視界にぼんやりと浮かび始めました。

 様々な色が織りなす線が、どんどんと鮮明になっていきます。

「なーに?」

「あなた、たぶん食べてもらえないわよ」

 それは、ぼくの心の目が見ているお弁当箱の模様には似合わない、とても凍てついた音でした。

「なんで?」

「だって……。わたしに入れられちゃったから」

 それから、お弁当箱は話をしてくれなくなりました。

 ぼくは何度も、「どういうこと?」とたずねました。お弁当箱は、「じきにわかるよ」とボソリ呟くだけでした。


 トントントン、と忍ぶような足音が聞こえてきました。

 それがなんの音か、お弁当箱はすぐに気づいたようでした。

「あぁ」とお弁当箱が漏らした息は、どこか悲しげで、今にも泣き出しそうな響きをしていました。


 突然、世界は眩い光に包まれました。

 ぼくは思わず目をギュッとつむりました。

 それから、おそるおそる目を開けてみると、そこにはパァッと明るい笑顔が咲いていました。


 なんだ、この様子なら、美味しく食べてもらえそうじゃないか。

 ぼくはそう考えて、心の糸を緩めました。

 それが失敗だったと気づくのは、それからたった数秒後。

 目の前にある顔から、輝きが失われた時のこと。

 ぼくは、その暗い顔を見て、食べてもらえないと確信しました。


 刹那笑顔を咲かせた子は、よたよたと上の階へと戻っていったようでした。

 パタン、と扉が閉まる音がしました。

「ほらね」

 お弁当箱が、ため息混じりに言いました。

「どういうこと?」と、何度もした問いを、またしました。

 すると今度は、お弁当箱は答えてくれました。

「わたしにオムライスが詰められる時は、頑張れって活を入れる時だから。今のあの子には、活は刃だもの。あなたを見たら、食欲をなくすに違いないと思ったの」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る