1 再生
吹く風の冷たさと、降る日光の無力さに嫌気が差す。
――北海道、札幌。
もう夏の八月だというのに、北の大地、北海道では冬のようだ。
この涼しさに憧れてこの地へ来たと言うのに、いつから、なぜ変わってしまったのだろう。
札幌、北二条駅。イチョウ並木の中、歩みを止めない。
大学のキャンパスへと向かいながら、今日の予定を諳んじる。
[午前九時 イギリス文学概論の講義]
(寒さに震えながら話してくれた、この世界の生き物のこと)
[午前十一時 スティーヴン・キング論の講義]
(危なっかしい、マイペースな性格)
[午後二時 現代文学についてのゼミ内議論]
(砂浜で燥ぐ、子供みたいな姿)
(いつも変わらず、その笑顔を振り撒いていた。泣き顔なんて、見たことがなかった)
「だめだ……」
ため息混じりに、呟く。
この街を歩く度、僕はどうしても「彼女」のことを思い出してしまうのだ。
――くい。
一年前、忽然と姿を消した、僕の恋人。
何も残さず、連絡先も消して、この街を去った僕の恋人。
それでも、今でも大好きな、心から愛している、僕の恋人。
「はあ……」
何をしていても、何を考えていても、ふとした時にため息を吐いてしまう。
彼女が思い出されるこの街が、僕はひどく嫌いだ。
大学を卒業したら、関東に帰ろうとさえ思うくらいに。
イチョウ並木を抜けると、そこには往来する学生や職員たちの姿があった。
そして更に歩いていくと、やがて講堂が見えてきた。
それと同時に僕は学生証を用意する。
その間、すれ違った職員が気持ちの良い挨拶もしてくれる。
「こんにちは!」
「……」
しかし、僕は挨拶を返さない。もやもやと淀んだ心が晴れなくて、返すことができない。
職員が訝しげに僕の方を見る。
僕は僕とて目を逸らして、交差する足の速度を速める。
そして、今のこの自分の性分から逃れるために、さっき思ったことをまた思い返し、気を紛らわそうとする。
(――関東に帰ろうとさえ、思う)
思い出す。僕はさっきそう強く思っていた。
「――」
それでも、僕は多分帰らないのだと今は冷静になって思う。
ここにいたら――彼女と過ごした場所にいたなら、またいつか彼女と会える、心なしかそう思ってしまうから。
講義室の中。少なくもない、多くもない学生たちが様々に過ごしている。
ひとり読書に耽るものもいれば、友人達と談笑するものもいる。
「お前『映像論』のレポート出した?」
「あ、やべっ! 俺だしてねえわ」
「大丈夫か? 期限昨日までだったぞ」
「マジか……」
談笑するものたちからは、いつもそんな他愛もない会話がよく聞こえてくる。
僕はそんな学生たちを横目に、最前席を陣取り、またいつものように教授が来るまでの間、窓の外を眺める。
昔、彼女が教えてくれた。このキャンパスには中々見ることのできない珍しい植物が沢山ある、と。
思い返せば、生物学に何の関心もない僕でも、彼女が話す生物のことについては、どれも英語と同じくらい、いやそれを超えるくらいに、興味深く感じた。
窓の外には、沢山の緑が広がっている。
ふと思う。
その中にはいくつ、彼女が言った珍しい植物があるのだろう、と。
聞く術もない。
僕は惰性で、また窓の外を見る。
何分くらい経ったのだろう。
何の変わり映えもない、これといった激しい面白みもない窓の外の景色を、延々と眺め始めてから。
僕は今、とても衝撃的な気分に包まれている。
手は汗ばみ、脈を打つ速度も急激に上がっている。
なぜかといえば、つい先ほどのことになる。
水を飲もうとして、手提げに目線を移そうとしたとき、僕はかすかに、窓の外に捉えたのだった。
「……くい?」
見覚えのあるシルエットが見え、意識するより先に、そう口にしていた。
「嘘だろ……?」
だが、改めて窓の外を見て、僕は強く確信した。
一年ぶりに見る、あの姿。いつも揺らしていた、あの茶髪。
間違いなかった。
窓の外に、緑のキャンパスの中に、確かに「くい」の姿があったのだ――。
僕は勢いよく講堂を飛び出す。
生徒たちがジロジロと怪訝にこちらを覗こうと、気にしない。
「くい……!」
走りながら、呟く。
すれ違った職員に、訝しげにじろじろと後ろから見られても。
周りなんかどうでも良い。
聞きたいことが、山のように溢れていた。
なぜ急にいなくなったのか、この期間何をしていたのか、何より、僕を嫌いになったのか。
でも今は、そんな事もともすればどうでも良かった。
彼女と会うことができれば、それで良かったのだ。
僕は走る。彼女のことを思いながら走っている。
――彼女がいなくならないように。もう手離さないように。
あの日、彼女がいなくなった前日、素っ気なく電話に出てしまったことを謝るために。
後悔を今、清算したいから。
どんどんとキャンパスの中、イチョウ並木や幾つかの池の横を走り飛ばしていく。
少しずつ地面を蹴る強さが強まって。少しずつ腕を振るう速度が速まって。
彼女の姿が近づく。
彼女の姿が明確になる。
それと同時に、僕の確信も強まっていく。
彼女はキャンパスの中、理学部の施設の近くにあるベンチに腰掛けていた。ペットボトルのコーヒーを片手に、スマホを眺めている。
ようやっと僕は彼女の近くまで辿り着き、呼吸を整える。
やはり、そこにいる女性は、半年前に連絡が途絶えた、僕の恋人、くいに間違いなかった。
手に汗を握り、鼓動は速いまま止まらない。
だけれど、彼女に近づき、叫ぶ。
「くい……!」
瞬間、近くの池に留まっていた鳥たちが飛び立ち、周囲の人間たちの視線が集まった。
目の前の彼女は驚いたような、恥ずかしがっているような顔で、こちらを訝しげに見つめる。
「やっと、やっと会えた……」
息を吐くように、呟く。でも、言いたいことが山ほどあったはずなのにも関わらず、彼女に会えたせいか、それ以上の言葉が続かない。
さらに僕は、無意識にもそのままその場で泣き崩れてしまう。
以前よりも落ち着いた服――青色のカーティガンに、白いデニムを着て、大人のような見た目になった彼女は、顔を赤らめながらも、そんな僕を目を丸くして、見つめる。
僕はいけないと思い、言葉を何とか繋げようとする。
「ずっと、探していたんだ!」
優しく言うつもりが、声が震えて、荒がってしまった。
でも、伝えたかった。
この一年、僕がどれだけ君のことを待っていたのかと言うことを。
目が涙で満たされ、目の前の視界がぼやけていく。
すぐに僕は目を服の袖で拭って、彼女のことを見つめる。
すると、とても恋人には向けないような、衝撃、恐怖などといった複数の感情を一気に顔に浮かべ、黙りこくっていた彼女が、口を開いた。
「あなた、誰ですか?」
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