第三十一話 「治癒」

(マズイな)


 ロベルの思考内はこの一言に尽きた。

 何故ならば、ロベルの眼前に佇むこの魔女は──。


「筆頭魔女アンネゲルト様。まさか一介の使用人に過ぎない私めにお声かけ下さるとは、感無量にございます」


 辺境伯家筆頭魔女アンネゲルト。

 辺境伯家が抱える魔女たちの中で、より強く、より賢く、より使魔女として、当主自らの手で選抜される筆頭魔女。

 彼女こそが、選ばれし辺境伯家当代の筆頭魔女なのである。


 そして、彼女こそが、ロベルがこの辺境伯家で使用人を勤める上での目下最大の難点──つまりは、敵なのである。


「御託はいいです。可及的速やかに報告を済ませなさい」


(本当にマズイな。何故こんな所で鉢合わせる? こいつは普段、魔女棟の自室か当主の執務室に籠りきりだと聞いたが)


「彼女が花瓶の中の花と水を入れ替える為に、階段を経由して庭師のもとへ赴こうとしていたところ、階段を踏み違えて落ちてしまったようでして。そのことをいたくご心配なさられたお嬢様が、私めに魔女様のもとへと治療をお願いするよう命じて下さったのです」


 ロベルは刹那の思考で考えついた言い訳を滔々と述べた。


 ──間違ってもこちらの意図を悟られてはならない。

 そんな覚悟を抱いて。


「そう、ですか。フリーダ様が⋯⋯」

「はい。ですので、心お優しきお嬢様の命を遂行する為、彼女を死なせる訳にはいかないのです!」

「ええ、その通りですね」


(なんとか乗り切れたか⋯⋯)


 ロベルはぼんやりとそう考えた。

 しかし実際には、頭の隅で、本当はこの危機的状況を一切乗り切れていないことを理解していた。

 何故なら眼前の魔女は、からである。


「──ですが、一つお聞きしたい点があります」

「⋯⋯はい」

「何故、彼女の体には蝋がついているのでしょうか? それにその傷も、花瓶の破片で傷つけたにしては⋯⋯随分と、深そうですね」


 全てわかっていると言いたげなその視線が、ロベルを見つめた。


「⋯⋯⋯⋯ふぅ。すみません、愚かにも私は貴女様に隠し事をしました。⋯⋯どうやら彼女、今日が初仕事のようでして、本人のやる気が空回りしてしまったようです。この深い傷も、きっと⋯⋯彼女の忠誠心故の、自らへの罰、或いは戒めのつもりなのでしょう。自らの手でを行っている所を目にしました。⋯⋯これは本人の意識が途切れる前に、口止めされていたことなのです。『どうかこのことは黙っていて欲しい』と。大変、申し訳ございませんでした」


 ロベルは深々と頭を下げた。

 魔女の懐疑的な視線を感じつつ、次の言葉を待った。


「⋯⋯なるほど。では、蝋は?」

「それに関して、私は詳細を知りません。⋯⋯ですが、ここ最近、使用人の間でをもとにしたトラブルが発生しているようです。もしかすると、それが何か関係しているのではないか、と愚考致します」

「⋯⋯」


 どこか心当たりがあるのか、アンネゲルトは思案顔で押し黙ると、数瞬の間を置いてから、ロベルへ侍女を自分へ近づけるよう言った。


 奇跡は成った。

 最早望み薄だと感じていたロベルだったが、間近で起きる急速な復活に目を剥いた。

 鞭による深傷は、盛り返すように回復する筋肉により傷跡すら除去され、溶け込み固まった蝋は、火傷の損傷の痕跡すら消し去ってみせた。

 その間僅か五秒。一瞬の出来事であった。


 ここ数年を魔女と共に過ごしたロベルは、魔法の異質さを充分理解している気になっていたが、未だその深淵の一理すら理解していないことを思い知ったのであった。


「っはっ⋯⋯! はあ、はあ、はあ。⋯⋯あ、あれ? え!? ロベル様!?」

「はい、ロベルです。良かった、意識を吹き返したのですね。貴女がことを知ったときはどうなるかと思いましたよ」

「え、え? 私はフ──」


 ロベルの思惑を侍女が意図せずぶち壊してしまうことを瞬時に理解したロベルは、その口に手を押し当て、黙らせた。


「申し訳ございません、アンネゲルト様。彼女には少し、意識の混濁が見られるようです。魔女様の貴重なお時間を拘束してしまい、並びに、貴重な魔力を消費して頂いたこと、深く謝罪すると共に感謝致します。⋯⋯彼女は、一応の安全を図り、彼女の自室で安静にさせることと致します」

「体調が優れないようでしたら、回復魔法を重ねがけしますが?」

「いえ、ご多忙でいらっしゃる貴女様をこれ以上この場に引き止める訳にはいきません。⋯⋯それでは、私供はこれで」


 そう言いながら頭を深く下げると、ロベルは力を入れて侍女を抱き直し、その場を去った。



◇◇



「上手いこと逃げられたなぁ? アンネ」


 影に隠れて一連の様子を覗き見ていたその女は、影から僅かに体を出すと、わざとらしくアンネゲルトへ話を振った。


「黙りなさい、ロミルダ。弱者なりに知恵を使ったことへの褒賞として、今回は見逃しただけのことよ」

「へぇ、そうかい。アタシの目には、お前が上手いこと巻かれていたように見えたけど?」

「陰に隠れて聞き耳を立てていた陰湿な第三者には、まかり間違ってそのように見えてしまったのかもしれないわね」


 アンネゲルトの言葉に思う所があったのか、彼女は僅かにしか出していなかった体を全てさらけ出した。


 褐赤色の髪を無造作に後ろで一本に纏めた、ロミルダと呼ばれたその女は、影に溶け込むような漆黒の装束を纏っている。首元から僅かに零れ見えるのは、妖艶な褐色肌である。

 彼女は、その荒々しくも確かに整った紅顔を挑発的に歪め、口を開く。


「聞き耳どころか、ばっちりこの目で見てやったさ。お前の負け面をな」

「いちいち他人の言動を必要以上に気にする貴女を見ていると、私もそうは見られていないかと気になってしまいますね」

「チッ、もういーや、折角重要案件を教えてやろうと思ったのに、そんな気分じゃなくなっちまったわ」


 その言葉を聞いたアンネゲルトは、これまでの涼しげな表情を引っ込めると、血相を変えてロミルダに詰め寄った。


「教えなさいっ! その情報をっ!」


 何故ならば、辺境伯家の栄光の影の立役者である諜報組織、その最高幹部の一人であるロミルダが齎す情報と言えば、それは一つしかない。


「ふふふ、お前も大好きなのことになるとその表情をするんだな? えー? どうしようかなー? さっきあんな態度されたしなー?」

「茶化すなっ! 早く答えろっ!」








「⋯⋯お前の推測通りだよ。半年後の冬、遂に御当主様が御帰還なさるのさ」

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