アリウス ー星宿しの本懐ー
楓雪 空翠
序章
第1話
「――ほう、こいつはなかなかの代物みたいだな」
「200年前の大火より前だよ、今じゃ出回ってない」
「そんな珍しいもん、お前さんはどこで見つけたんだい?」
「...言うまでもないんじゃねぇの」
そう言うと男は豪快な笑いを洩らした。目元に嘲りを含んだ、心地の悪い笑いだ。彼の
「確かにそうだな、
「それで、いくら出すんだ?」
「そうだな…これで足りるかい、“死神”さんや」
男の試すような含み笑いが、数枚の銀貨を差し出した樹皮のような手が、僕を上の方から抑えようと驕っている。何とも気味が悪い。
「相場は、これくらいでいいんだろう?」
「・・・どうせそれしか持って来てないだろ。まぁいいよ、多分明後日までは食い繋げるし、他の奴よりは多いから」
「そうかい。それじゃ、頼んだぜ」
軽口を聞き流した僕は、得物を彼の喉笛へと向けた。華美な装飾は
それにしても、上物で一思いに刺されて死にたいなんて、物好きも居たものだ。
狭く湿気た脇道を抜け大通りに出ると、日がある程度昇ったからか、辺りは人混みで煩雑していた。賑いと形容すればいささか
「やぁあんた、今日も朝っぱらからお仕事かい?」
「パンを一つ」
「あいよ。連れないねぇ、“死神”様は」
「...好きに呼べば」
この屋台の主人とは、古くからの付き合いだ。――と言っても、孤児院を抜け出して路頭に迷っていた僕に、よく売れ残りのパンを分けてくれていた彼女へ恩義を感じているだけで、特にそれ以上の間柄はない。それでも、今でも値段をまけてくれるのには感謝している。
「…いつも来てくれるのはありがたいけど、たまにはパン以外も食べるんだよ?」
「余計なお節介だよ」
「それじゃ、あたしからお節介をもう一つ。さすがに顔くらいは水で流したらどうだい?」
「それは―――帰ったら、ちゃんと洗ってるから」
「そりゃ良かった。あんたのことだから、いつも血塗れのまま寝てるんじゃないかと心配でね」
「...そういえば、今日はやけに騒がしいけど。お祭りでもあったっけ?」
「お祭りでもってあんた...はぁ、明日は夏至祭でしょうに。まだ寝惚けてんのかい?」
夏至祭――確かにそんなものがあった…ような気もする。毎年町の広場で開かれる一大行事だが...まぁ、ろくな思い出もないのだ。出来れば行きたくはない。
「どうせあんたは今年も行くんだろ?」
「...うん、そうなるだろうね」
「年に一回の稼ぎ時だ、たんまり稼いで来るんだよ」
「―――ナズさんも行くの?」
「馬鹿を言うんじゃないよ。あたしゃ小さい頃から、ずっとパンを焼いてるんだ。死ぬまでパンを焼き続けるつもりだよ。それに、“死神”専属のパン屋がいなくなったら、あんたも困るだろう?」
「――お~い、ナサリー、俺にもパンをくれ。二つ頼むよ」
「はいよ、ちょっと待ってな!…さあほら、もう行った行った。他の客を待たせると悪いからね」
そう言うとナズは少し冷めた黒パンを僕に手渡し、快活に微笑んだ。彼女と話しているときは、少しばかり心を許せるような気がしている。きっと、奴らとは違うからだろう。...だからこそ、きっと僕はこれ以上傍に居るべきじゃない。僕が思うに、不条理とは元からそこに存在しているものではなく、誰かが作り出した御都合主義だ。僕はそちら側にはならないし、彼女は理不尽に囚われるべき人間じゃない。
左手のパンをかじりながら、道の端へと逸れた。家路につく際に水路を辿る癖は、どうも未だ抜けていないようだ。あの頃と変わらない、雑多な屋台と物乞いに溢れた、見飽きた通りを黙々と歩いた。所々雑草の生えた石煉瓦には、血と酒が染みついている。今となっては吐き気も失せた。――ここは、ずっと昔のままだ。何一つ変わらず、何一つ変われず、昔のままだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます