二十九 心の逃亡

 歴史概論と基礎経済学の講義が終った。

 真介とともに、待ち合わせ場所の図書館裏でトラに会い、トラをリックに入れて背負い、生協の販売部へむかう。


 真介もあたしもジーンズにコットンリネンの生成りジャケットだ。

 春、母からこのシャンプレーの生成りジャケットがとどいたとき、母にしては趣味がいいと思ったが、こうして真介ともに歩くと、真介がジャケットを選んだのが良くわかる。

「そのジャケットにして良かった」

 しんちゃんはあたしのことを考えてた。クソバカじゃなかった・・・。

 真介から、ジャケットを選んだときの記憶が伝わってきた。


 春、地元のデパートで、母はチェックのジャケットを選び、真介はこの生成りのシャンプレーを選んだ。

 母が選んだジャケットを見て、真介は子どもっぽい印象を受けた。

 そこで真介はそんなことを話さず、さなえは大人らしい雰囲気を持っているから、大人のおちついた雰囲気の物を着せたいと話した。

 真介のその一言で、母は緑や赤や黒のギンガムチェックをあきらめた。

 母の頭の中にいるあたしはティーンのままみたいだ。


「娘をいつまでも子どものままにしておきたいのは、どこの親も同じだよ。

 でも、さなえのお母さんは、さなえをそれなりに独立した人として見ているし、そういう風に扱ってきた。

 まあ、シンクロしてる存在がそうさせたんだけどね。

 ところで、爺ちゃんは、なにを食いたいんだ?」

 真介はあたしが背負っているリュクのトラにそういい、あたしが質問しようとすることから話をそらせた。


トラがリュックのフタから、顔を出したらしい。ゴソゴソ動くのがわかる。

「そうよなあ、鮭の塩焼きを食いたいが、たまには牛肉なんぞもええな・・・。

 そしたら、お子様好みのハンバーグにしてくれんかのう。

 わしは香辛料が苦手ぞね」

 トラは香辛料にひどいアレルギー反応をする。

 胡椒をちょっとなめただけで一時間くらいくしゃみが止まらなかった。

 山椒もだ。辛子をなめたときは飛び跳ねていた。


「香辛料ぬきのハンバーグにしよう。六人分、材料を買うよ。野菜をたくさんだ。

 それと、魚も必要だ。鮭を買おう。鰺もいいね・・・」

 あたしに好き嫌いがないのを知っている真介は、夕飯の食材をどんどん決めてゆく。あたしは大助かりだ。


 生協の販売部に入った。真介はカートを押して冷凍物のコーナーへ行き肉と魚をカートに入れ、野菜のコーナーで野菜をカートに入れた。

「保存食は冷蔵庫と食品棚にあったから買わないよ。

 他にほしい物があるか?」


「牛乳とチーズかな。トラは?」

「そうじゃな。スパゲッティー用に、貝の水煮の缶詰とタラコかな・・・。

 おお、それとアイスクリームじゃな。ハゲダスのアイスじゃ!」

「しんちゃん、ハーゲンダッツ」

 あたしは真介に目配せした。

 トラはあたしよりテレビのCMをよく見ている。


「了解、爺ちゃんらしいな・・・」

 真介は冷凍物のコーナーへもどって商品をカートに入れた。

 すると、真介の横からアイスクリームに手を伸ばした女が手を止めた。

 真介を見つめて呆然としている。



「もう他に、必要な物はないね?」

 真介は女に気づかないままそういい、レジへ行こうとした。


「しんすけ・・・」

 女が真介を見つめている。

 真介が女を見た。

「・・・」

 真介は言葉を無くしている。


 女は背が低い。身長は真介の胸くらいだ。百五十センチくらいだろう。中肉で髪が長く、平均的日本人の容貌をしている。いや、それより、ちょっと・・・。


「あたし、探したのよ。

 その女は誰?あたしに隠れてそんな女と会ってたの?」

 女は言葉ではそういっているが、態度はよそよそしい。

 明らかに意識と深層意識のバランスが崩れ、精神にもその影響が現れつつあった。



「この人は俺の愛妻だ。アンタこそ病院を抜けだしたのか?」

「あたしを病院に閉じこめたのは・・・」

 女はそこまで話して、自分の言葉を確かめるように、何かを思いだそうとしている。


『さなえ、ここから離れて、大学病院の精神科へ連絡し、隔離入院患者の浅野美子あさのよしこが病棟を抜けだしてここにいる、と連絡してくれ』

『了解』

 あたしは真介からカートを受けとり、レジへむって押しながら、

『トラ、あの女を見張っててよ』

『わかっとるぞ。真介も、えらい者に好かれたもんぞね』

『トラは知ってたのか?』

 そんなことはあとだ。あたしはすぐさま大学病院へ連絡した。


 すると、三分もしないうちに、ここ生協の販売部に三人の病院職員が現れ、冷凍物のコーナーへ走った。職員たちは逃亡した患者を学内で探していたようだった。


「何するんだ!あたしは家に帰るんだ!

 夫が迎えに来てる。いっしょに買い物をしにここに来たんだ。

 あたしは愛妻だ!」

 販売部のフロアに女の叫び声がひびいた。


 異常な叫び声と病院職員のユニフォームから、病棟患者の脱走がわかるらしく、レジの店員が会計しながら、

「また抜けだしたのね。

 凶暴じゃないからって、病棟の管理や警備がずさんすぎるわよね。

 コレが感染症患者ならどうするのよ。

 患者が動きまわった区域すべてが隔離されるわ。

 まったく、あのアサノチビックには困ったものね。

 とんだ営業妨だわ・・・」

 と、ぼやいている。


「そんなに何度も逃亡してるのか?」

 真介がレジに走ってきて、店員にそういった。

「月に一度くらいかな・・・。

 いつもは講義の時間帯だったから、こうした状況を知ってる学生は少ないわ。

 でも、これで知れわたったから、アサノチビックが逃亡すれば、いつでも病院へ通報がゆくわね・・・」

 店員は淡々と話しながら商品のバーコードを機械に読み取らせている。


「会計は一万・・・です。

 レジ袋をお買いになりますか?」

「いや、いらない」

 店員は真介とあたしを見て、妙な顔をしている。

 あたしのリュックはトラと教科書などが入っていて、買ったものを詰められるほどの余裕はない。

 真介は買い物バッグのようなものは持っていない。

 店員はどうしますかとあたしたちを見ている。


「では現金で・・・」

 真介は支払いをすませ、ジャケットの内ポケットから大きな風呂敷を取り出し、トートバック風に結わえて食材を中に入れ、風呂敷の取っ手になった部分を肩にかけた。

「さあ、帰ろう。今日はお仲間がいないから安心していい。

 ハナは自宅待機処分になってるから、さなえに近づかない。

 アパートを知られることもない」

 真介は、これまであたしがあの四人の仲間にアパートを教えなかったことを、見ていたかのように話してる。すべて、トラが教えているのだろう・・・、


「まあ、そんなとこよな。実際は加具土神さんじゃよ。

 はよう帰ってハンバーグじゃな。

 タマネギをたくさん入れとくれ」

 リュックからトラの声が聞える。聞えるのはあたしと真介だけらしい。レジの店員はあたしたちを見ていない。


「ハナのことがあったよって、対策を講じたぞ」

「もしかして四人にも対策した?」

 アキとエッちゃんとママとメグ(瀬田亜紀と松岡悦子と野本雅子と川田恵)にはトラの能力を披露している。


「さっき、加具土神さんがピカッと光を発した。

 トラに関係した者たちの記憶から、トラは全て忘却の彼方になったよ」

 真介がトラに代ってそう説明した。

 あたしは、映画の一シーンのような、そんな光を見ていなかった。


「そしたら、さっきの女の人のことを話しても、平気だね?」

「ああ、だいじょうぶだぞね。

 のう、真介」

「まわりの人たちに、我々の話はさなえと俺の世間話としか聞えてないよ」

「そしたら・・・」

 あたしはあの女、浅野美子あさのよしこについて質問した。

 


 販売部から外へ出ると、あたしの質問に真介が説明する。

「あの人は、自分の思いが強すぎで、現実が見えていないんだ。

 すべて、自分の思い通りになっていると思ってる。

 空想の世界ならそれでいいが、現実世界にそれを持ち出すから、ああなってしまうんだ。

 だから、まわりの人たちは大変だ。

 ここの学生だったので、家族が手を焼いて、大学病院に相談した。

 そして、入院した」


「学年は?」

「入学して三年目のはずだ。さなえより一つ上だが、病状が安定しているときだけ病棟から大学へ通ってるから、学年はわからない。教育学部のはずだ。

 ここに来て二か月の情報はそれくらいだ」

「ハナ(春野羽那はるのはな)といい、チビック(浅野美子あさのよしこ)といい、本音だけを通そうとするのは、こまりもんだね・・・」

 大学の正門へ歩きながらあたしは真介の手を握り、そういった。


 心が現実から逃亡し、本音や理想がそのまま現実になるとか、すでになっていると思いこんだら、大変なことになる。

 ハナは売れっ子の指人形師になるし、選挙立候補者は確実に当選して、公約を実行せずにでかい顔をするだろう。なぜなら、立候補者は必ずといっていいほど、公約を実行した試しがない。口先だけで、公約を実行しないのが本音だからだ。


「まあ、日本人は、他人に迷惑をかけないように、本音と建て前をうまく使い分けてるってことだね。

 これって、これまでの教育の結果だよ」

 真介が考えているのは日本人の教養のことだ。

「教養って、難しい課題だね・・・・」

 あたしは「教養」について、考えたことがない・・・。

「さなえ・・・。見ろよ」

 大学正門の手前で、真介が立ち止まってあたしの手を握り締めた。 

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